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ほんとうのきもちに出会うまで。

自分の気持ちに気づくのに25年。

過去に起きた出来事で、悲しかったこと、怯えたこと、さみしかったこと、いや、それすら自覚していないことが僕の中できっとたくさんあって、多くは素通りしてきたんだろう。痛みや恐怖を感じた時、不安定な環境に置かれた時、それを認めて「どうするか?」「どうしたいのか?」など考える余地もなかった。愛と執着の狭間で僕はどうしていいのか分からなかった。自分の気持ちと相手の要求との線引きがずっとわからなかった。親と子の気持ちが同居するような。どれが自分の気持ちかを明らかにしたら都合が悪いのだ。

不協和音

恐怖を覚える相手がそこにいなくとも、訪ねてくる人が変わっても「どう思う?」「どうしたい?」「大丈夫?」と学校生活、職場で聴かれても反射的に相手が望むことを先回りして応えていた。それはどこかきっと僕にとって虚しい音だったと思う。「本当の音」ではなく、どこか違和感の残る音をさせていたと思う。でも、その時そう応えることしかできなかった(決めた)自分を僕は肯定する。肯定できずに拒絶していた僕がいた。ということだ。それは今となってはいえること。その時は誰にも明かしたくない秘密であり、本当の名ような、魂そのもの。僕は隠し続けた。無いことにしていた。ということをここ最近認識できた。僕は"ある自分の気持ち"を出すのが「怖かった。」

語るということ。

僕はたくさんの人に声をかけてもらった。たくさん話す場を作ってくれた。そしてその湧き上がる気持ち、背景を評価もせず、僕の気持ちに寄り添ってくれた。言葉ではなく、その人の態度や眼差しで救われた。

当事者の活動から出発した子はたからプロジェクトも2019年から取材が入るようになり、メディアにも自分の生い立ち、そして活動への想いを話す機会が増えた。ある種強制的に話さなければいけない状況が来たということも重なって、僕は何度も何度もパニックになり倒れた。向き合うことは本当に辛い。ただただ苦しかった。でも、僕は越えたかった。どうしてもこの感情を超えて言わなければいけない何かを感じた。

語ることは自己治癒の段階としては回復に向かっているということを後で知り、語るとはどういうことか考えた。漢字の成り立ちから。形声文字(言+吾)。「交互に言う・かたる」を意味する「語」という漢字が成り立ったそうです。(以下参照)

語ることは相手にだけではなく、自分の内と外で交互に意識を向けることだと思う。自分の気持ちに寄り添うこと。自分の気持ちを撫でていく。「怖かったね」と。もし僕と同じように怖くてもそれを意識することが難しい人がいたら、「それでいいんだよ」という言葉を自分にかけてほしい。

きもちを出せる場所と関係を作っていこう。

そうした方が僕は生きていきやすいからそうする。本当の音が出せる場所。空気が濃い感覚というか。いろんなフィルターを外して、「どんな気持ちか」ということは誰にも犯せないのだ。だってそう「思った」んだから。そしてその気持ちを一度眺めていくと、きっとあなたの本当の音がなると思う。「こうしたい」「これは困る」とか。願いとか思いとか。そういう形にないものを大事にしていこう。わたしもあなたも。

対話についてのメモ

歩いて行こう。

モヤモヤしたり、どうしたらいいのか分からなくなったりしても、その気持ちをどうかどうか、愛して欲しい。大事にして欲しい。

いつか朧げにでも、じっとじっと見つめていこう。諦めずに。
あなたの願いがいつか見えてくるまで。
本当の音が聴こえるまで。

サポートを糧にもっと面白く楽しくなるような創作や活動に変えていきます!(子育て支援・児童虐待予防、子どもに関わる分野での活動資金やえほんなど創作活動に当てていきます。)