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ピント

 物を見る時に、対象物にピントが合えば見えるけど、ピントが外れると見えない、ということが起こります。あるいは、ある対象物にピントが合うと、その対象物とは距離の離れたところにあるものからはピントが外れて見えなくなるということが起こります。
 そしてこの「ピントが合う・合わない」という現象は、視覚においてだけでなく、人との会話のような領域においても起こり得るなと最近感じたことがありました。


 最近、手伝いに入っている現場は、私がそれまであまり関わってこなかった種類の作業が多くあります。そのため、作業に手間取ることが多くありますが、その現場の親方は面倒見がいいので慣れない私に対して積極的に作業を教えてくださいます。
 そうなると、やはり私も親方の期待に応えるために頑張ろうという気になり、平日は始終仕事のことを考えるようになります。

 そんな中、先日私が所属している環境改善グループである「野土ぬづち」で話し合いをすることがあり、オンラインミーティングを行いました。助成金の申請や今後のスケジュールについて話し合ったのですが、最初、野土ぬづちのメンバーで話しているとき、自分の中に非常な違和感が生じました。なんというか、普段の仕事の時の意識の持ちようと野土ぬづちで話している時の意識の持ちようが違うので、野土ぬづちの意識の持ちように戻す(変える?)のに手間取ったのでした。
 「意識の持ちよう」というと曖昧ですが、要するにそれぞれの人たちが持っている価値観、世界観、目的、目標みたいなもののことです。
 仕事のメンバーとであれば、仕事を遂行するという目的、遂行されるための基準、お金を稼ぐための活動であるということ、などです。野土ぬづちで言えば、お金を稼ぐためでなく自然をより良くしようという目標、各メンバーなりの活動の目的、自然環境が危機的な状況であるという世界観、などです。
 私の仕事も山の仕事なので、野土ぬづちでの活動と表面上は似ているところがありますが、仕事と野土ぬづちでの活動とでは「善し」とされていることの作業の基準や種類が違うので、その切り替えが必要になります。平日の仕事モードの晩に野土ぬづちのミーティングがあったので、そこらへんの切り替えがうまくいかず、違和感を感じてしまったのだと思いました。
 その仕事モードで野土ぬづちのミーティングを迎えてしまった時に、まるでピントが合わずにぼけてしまう風景のように、野土ぬづちの他のメンバーが話している内容が頭に入ってこなかったので「ああ、思考の分野においても「ピントの合う合わない」ってあるんだなぁ」と思ったのでした。

 上記の私の例は他の人には分かりにくいかもしれませんが、似たようなことはおそらく多くの方が経験したことがあるのではないかと思います。
 例えば、職場の同僚と話している時と、家族と話している時では共有している情報や価値観などが違うので、話す内容はもちろん、話すときのテンションや態度も多くの人が変わるのではないでしょうか。その他でも友人と話すときも異なるでしょうし、友人間であっても、どういう友人であるかによって話す内容や会話の(双方の)雰囲気は変わるのではないでしょうか。
 って思ったら、フォローしている方で同じようなことを思っていた方がいらっしゃいました。


 思い返せば、私はそれぞれピント(価値観、世界観、目的、目標)の違う集団、場が多くあります。先述の野土、弓道部OB会松葉舎、黙示伝授の会(これについては後日書きたい)など、さまざまな場があります。noteでの交流もこれらとはピントの違う場の一つと言えるでしょう。
 それぞれの場において共有しているものや話せる話題はそれぞれ違いますが、そのどれもが私の関心事であり、私が本心で思っていることをぶつけている場です。ただ、その場においての人たちに届く言葉で話そうとすると、その場にピントを合わせる必要があるので、私は複数のピント焦点の場を持っている、とも言えるかもしれません。
 先日の野土でのミーティングの時のように、とっさにピント共通の世界観を合わせることができない時は少し不具合を生じますが、ピント焦点の異なる複数の場を持っていて、それぞれの場を行き来することができるのは良いことだと思います。

 視力が落ちる要因の一つに、ある一定のピントにばかり合わせていると、ピントを切り替える筋力が衰えて他のピントに合わせることができなくなる、というものがあります。本を読み過ぎて近視になる場合などがその例です。
 思考の領域でも同じようなことが起きるのではないでしょうか。すなわち、ある一定のピント価値観・世界観でのみ生活していると、他のピント価値観・世界観に切り替える力が衰えるのではないでしょうか。
 複数のピント価値観・世界観の場を持っている私が思うには、それぞれのピント価値観・世界観のどれが正しくてどれが間違っている、ということはなくて、それぞれのピント価値観・世界観にはそれぞれの良さや心地よさがあります。であるならば、それらのどれか一つのピントに合わせて良しとするのではなく、それぞれのピントを場に応じて滑らかに切り替える方がより「生きやすい」ように思います。
 近視でも近くのものしか見ないならば特に問題は起きないかもしれませんが、私は遠くのものも近くのものも時に応じて、場に応じて両方見たいと思います。

 

 複数のピント価値観・世界観の場を持っていることのありがたみを感じながら、それぞれの場を滑らかに行き来したいと思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!



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