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自己探求と自己表現は別物である、という気づき

 友人と話していて、「自己探求と自己表現は別物だったんだ」という気づきがあったので記事にしてみます。


 私は甲野善紀先生を尊敬しています。
 「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という抽象的な命題を武術の道において探究し続け、今なお探究を深められている姿に非常に強い尊敬の気持ちが湧きます。
 しかし、私自身は武術を修めてはいません。私が自分自身の内的探究として用いているのは仏教で示されている瞑想法です。

 自分のことながら、なぜ私は甲野先生に惹かれて自己探求の道を歩もうとしたのに、武術の道ではなく仏教での実践法を実施しようとしているのだろう、と長い間不思議に思っていました。しかし、先日友人と話していた時にようやくその理由が分かりました。

 結論から言うと、「内的な探求とそれを外に表現する行為は、そもそも全く別の領域のことである」からです。
 つまり私が甲野先生に憧れたのは、甲野先生の「表現されている生き様」であり、甲野先生が実践している内的探究の方法ではなかった、ということです。ちょっと分かりづらいですね。以下、説明していきます。


 私は甲野先生の生き方に惹かれるところがずっとありました。
 「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という抽象的な命題を探究し続けて、年老いた今なお探究に深まりがあること。接して感じる佇まい。物事を見る時の着眼点。「甲野善紀」という人物の生き様に惹かれていました。
 甲野先生は武術という方向から自己探求を続けることでその生き様になっているので、私は「自己探求を続ければ自然とそういう生き方になるんだ」と安直に思っていました。
 ただ、私は武術の才能もなく、武術の道を探究することに興味が無かったので、自分なりに探究できる実践法を探して仏教の瞑想に巡り合いました。今も私自身の探求は主に仏教の瞑想法において行っています。

 しかし、仏教の実践で知り得た界隈において、そこにいる人たちを見ていると、私が惹かれる人はあまりいないことに気づきました。端的に言うと、甲野先生ほど惹かれる人は仏教の界隈においてはいません。
 中には瞑想において私よりはるかに高い境地に至った人にもお会いしましたが、その人の内的探究は凄いと思いながらも、その人に惹かれる気持ちはあまり出ませんでした。
 自己探求の方法として仏教の瞑想法を選択して、その瞑想法で私より高い境地に達している人なのに、あんまり尊敬できないのはなんでかなぁ、と長らく思っていて、友人とそんな話をしていると、「私が惹かれていたのは内的探究そのものではなく、あくまで表現に対してだったんだ」と気づいたのでした。

 「甲野先生の生き様に惹かれる」と言っても、そこで私が見ている「甲野先生の生き様」というのは、甲野先生の言動や立ち居振る舞いや武術的な動きとして現れています。それらはいわば、「甲野先生によって表現されたもの」です。
 しかし私が実践している仏教の瞑想法はあくまで自己探求の方法であり、表現ではありません。瞑想でいかに内的探究を深めても、それは人から見えません。瞑想において深める境地はあくまで主観的にしか確かめられません。
 つまり、私が惹かれている「甲野先生の生き様」というのは外に向けて表れているもので一種の表現であり、瞑想での自己探求は外に向けての表現でない、むしろ逆ベクトルである内向きの自己探求だったのでした。
 だから単純な話で、もし私が瞑想において高い境地に至ったとしても、それだけで私が憧れている甲野先生のような生き様になるわけではありません。もし私が甲野先生のような生き様を体現しようとしたら、自己探求(瞑想)とは別種の努力をする必要があるのです。それは自己表現という外に向かうベクトルのものです。そのことにようやく思い至りました。


 私は今まで、仏教の実践法をしているから語る言葉も仏教の言葉に依らないといけないと思い込んでいたのですが、「自己探求と表現とは別の領域の事柄である」ということを考えると、必ずしも私が表現するときに仏教の言葉に依る必要はないと思えてきました。
 むしろ、私が私の自己探求において得た気づきや経験を語る時は、私のオリジナルの言葉でもってそれを表現する必要があるでしょう。というのも、表現の手段として最も代表的な「言葉(言語)」というものが文化横断的なものではなく、時代や文化に非常に影響されるものである以上、仏教という2500年前の、しかも日本でなくインドの地で語られた言葉(表現)が、現代日本に生まれ育った私に合う言葉であるはずがないからです。そのことにもようやく思い至りました。


 私が甲野先生に惹かれているところの領域と、仏教の実践法に惹かれている領域が別のものであり、それぞれに探究を深めないといけないのだ、ということに気づけたのは大きな収穫でした。
 私は自己探求についてはそれなりの時間と労力を費やした自負はありますが、表現については今までほとんど努力したことが無かったため、これから学んでいきたいと思いました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!