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私が上座部仏教が好きな理由

 私は仏教徒を自認しています。正確に言うと上座部仏教の在家信者を自認しています。
 血迷って出家しようと思ってしまう程度には上座部仏教にコミットしているつもりです。

 ではなぜ私は上座部仏教をそこまで学び、修行しようと思っているのでしょうか。理由は二つあって、一つは「自分が知らない自分を知ることができる」から。そしてもう一つは「自分をより良く変えられると感じられる」からです。
 今日は「自分が知らない自分を知ることができる」という点についてお話しします。

 ところで、先ほどから上座部仏教、上座部仏教と言っていますが、多くの日本人にとって耳馴染みのない仏教だと思いますので、軽く説明をいたします。
 上座部仏教(テーラワーダ仏教とも呼ぶ)は、仏教発祥の地であるインドからスリランカを通じてタイやミャンマーなど東南アジアに伝わり、現在でも同地で信仰されている仏教で、「南伝仏教」とも言います。オレンジ色の袈裟を着た裸足のお坊さんのイメージがある方もいるかもしれません。古い世代の方だと「小乗仏教」という呼称の方が馴染みがあるかもしれません。

 (余談ですが、「小乗仏教」という呼称は元々はかつて部派仏教時代(紀元前くらい)に存在した「説一切有部」という部派に対して大乗仏教諸派が用いた蔑称なので、現在の上座部仏教に対して用いるのは不適当です)

 日本に伝わってきた仏教は南伝仏教に対して「北伝仏教」と呼ばれます。主に大乗仏教経典が伝わってきたので、北伝仏教≒大乗仏教という認識で大きく間違いはありません。
 上座部仏教(南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)の違いは多岐にわたり、素人の私が簡単に説明することはできませんが、簡単に言うと、上座部仏教の教義が書かれた経典は古い年代に成立したもので、大乗仏教(日本仏教も含む)の教義はそれより新しい年代に成立した経典を基にしている、ということになります。
 つまり、上座部仏教の方が、お釈迦様が説かれた教えに比較的近い教え、ということになります。

 さて、私はその上座部仏教の何にそんなに惹かれているのか。
 それはずばり、上座部仏教の修行法にある「瞑想」という技法に惹かれています。

 ただし、瞑想それ自体は仏教独自の技法ではありません。仏教誕生以前のインド文化に既にありましたし、現在もさまざまな宗教や身体ワークショップなどで用いられています。

 では、上座部仏教の瞑想とそのほかの瞑想は何が違うのか?
 一番の違いは、「ヴィパッサナー瞑想」にあると言えるでしょう。
 上座部仏教で瞑想というと「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の2つに大きく分けられます。
 「サマタ瞑想」は集中力を養う瞑想で、一般に多くの人が「瞑想」と聞くとイメージするものです。何かの図形を見ることに集中したり、何かのイメージ(神や仏、あるいは慈悲などの心的イメージ)に集中したり、音に集中したりします。
 集中力が高まると集中対象と自分が一体化したような感覚になったり、自分が無くなってしまったように感じられたり、宇宙と一体化したように感じたりするそうです(ちなみに私は集中力がない人間なので、そのような体験をしたことはないです)。

 「ヴィパッサナー瞑想」はそれとは異なり、気づくこと、観察することに重点を置いた瞑想です。「ヴィ Vi」は「明瞭に」「パッサナ passana」は「見る」という意味です。
 じゃあ何を見るのか?ということになりますが、教義的にはあらゆる事象の「無常・苦・無我」を見るのだ、ということになります。ですが、それでは何のことか分からないと思いますので、具体的に言うと自分の身体や、身体の感覚、心の動き、あるいは心の法則などを見ていきます。
 より具体的には呼吸が鼻から出入りしている時の感覚とか、歩いている時の足の感覚を見ます。

 ではここで、実際の瞑想の様子を少し描写してみます。

 まず、上記のように身体の感覚に意識を向けます。
 例えば呼吸。空気が鼻から入る。出る。入る。出る。それに意識を向けていきます。
 しかし、おそらく1分もしないうちに心が呼吸から離れます。
 今日の晩御飯何食べようか、とか、昨日あいつにあんなこと言われた腹立つわ、とか、昨日上げたnoteの記事に反応が薄かった…とか、いろいろ別のことを考えてしまうでしょう。
 心が呼吸から離れた、と気づいたら、もう一度呼吸に心を向けます。しばらくしたらまた心が呼吸から離れます。離れたことに気づいたらまた呼吸に心を戻します。また離れます。気づいたらまた戻ります。離れます。気づいて戻します…と繰り返していると、だんだん呼吸から心が離れなくなります。そしてより微細な感覚を観察できるようになり、そのまま集中力と観察力が高まると非常にミクロな事象が観察できるようになり、最終的には事象の発生と崩壊が観察できるようになる……そうなのですが、私はそこまでの観察はできていません。それより一万歩くらい手前の浅瀬をちゃぷちゃぷしているくらいです(笑)

 ただ、その私でも気づけることがあります。
 さて、長くなりましたが、ここでようやく本題の「自分が知らない自分を知ることができる」の説明に入ります。今までのは全部前振りです。前振りが長い!すみません…。

 さて、心が呼吸などの観察対象から離れる時、何らかの気持ち(妄想)が浮かんできます。こういう時に浮かぶ妄想は様々なものがあるのですが、頻繁に同じ妄想が浮かぶことがあります。さっき挙げた例で、今回は「昨日のnoteの反応薄かったな…」という妄想が頻繁に浮かぶとしましょう。
 そしてその妄想に何度も気づいていると「昨日のnoteの反応薄かったな…」の奥にさらに別の心が生じているのが分かります。例えばそれは「みんなからの好意的な反応が欲しい、という承認欲求」だったりします。
 つまり、自分の心の中に生じる妄想に何度も気づいていると、その妄想のより深いところにあるものが見えてきます。奥にあるものは概して、非常に幼稚で未熟な感情や気持ちであり、だからこそ、自分が普段目を背けていたり、抑圧している心であることが多いです。
 また、自分の心の構造、癖のようなものも見えてきます。「私は承認欲求が強いから、人から好意的に見られるように自分を大きく見せようとする傾向が強いなぁ」とか「人から気を引くためにわざと自分を不幸そうに見せるなぁ」とかです。

(ただ、ここで注意すべきは、あくまで「気づき」が大事なのであって、推測したり予測したりすることは大事ではないということです。
 さっきの例で言えば、「昨日のnoteの反応薄かったな…」という妄想が生じたときに「みんなからの好意的な反応が欲しい、という承認欲求があるんじゃないか」と推測するのは瞑想ではありません。
 そうではなくて何度も気づき続けることで、あるとき「ハッ!」とさらにその奥にあるものに気付くだけです。私は「降りてくる」感覚だと感じています。ここは大事なポイントです。)

 私はこの「自分の心の癖」とか「自分が気づいていない自分の気持ち」とかに気付いた瞬間がとても気持ちが良くて好きです。その瞬間には「ああ、そっか」と腑に落ちる感覚というか、肩の力が抜ける感覚というか…。説明は難しいですが、そういうホッとする感覚が生じ、それがとても心地良く、瞑想を続けるモチベーションになっています。

 そういう体験ができる瞑想という技法が好きなので、その技法を現代まで伝えてくれている上座部仏教が好きになり、より深く学び、より深く修しようとして在家信者を自認するほどになりました。
 以上が私が上座部仏教を好きな理由の一つです。

 上座部仏教が好きな理由のもう一つである「自分をより良く変えられると感じられる」という点については、また別の機会にお話しできたらと思います。

 本日は以上です。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!



 もう一つの理由である「自分をより良く変えられると感じられる」の部分を書いた記事は以下。