「全ては変わり得る」という教えに感じた希望
以前、私は上座部仏教を好きな理由を書きました。
その記事で好きな理由は二つある、と書いておきながら、もう片方を書いていなかったので、今回それを書いてみます。
私が上座部仏教を好きなもう一つの理由は「人は変わることができる」と説いているからです。正確には「全ての物事は常に変わり続ける」という教えです。この教えは「無常」と呼ばれています。
お釈迦様はこの世界の本当の有り様は「無常」であり「無我」であり「苦」であると説きました。これらは世界の有り様の3つの視点からの表れ方だと言われます。その内の一つの表れ方に「無常」の教えがあります。
「無常」は元々の言葉を漢訳された語です。「諸行無常」というフレーズはみなさんも聞いたことがあるかもしれません。「諸行無常」はパーリ語(聖典語。お経に記されている言語)ではsabbe saṅkhārā aniccāと言います。逐語訳すると、sabbe(全ての) saṅkhārā(現象は) aniccā(常(=永遠不変)ではない)となります。
仏教で重要な教えである無常を私が解説するのは完全に力不足なのですが、敢えて少し説明するなら、世の中に絶対変わらないものなんてないよ、という教えです。
例えば私たちは自分の身体はずっと同じようにあると思ってしまいがちですが、自分の身体も分子レベルで言えば半年で完全に入れ替わると言います。今も細胞単位で言えば変わり続けています。
また、地球は誕生してから50億年経っていると言いますが、あと50億年後には太陽の膨張に飲み込まれて消滅すると言います。
さらに、その宇宙自体も膨張の限界が来て、今度はやがて宇宙が縮小し、ビッグバンの逆のビッグクランチが起こって宇宙が終ると言われます。(宇宙論はたくさんあるので、膨張し続けるとする説もあるそうです。私は専門ではないので詳しくないです)
このように、この世のあらゆるものは永遠不変のものはなく、変わり続け、いつか終わりを迎えます。
こんな当たり前の例を出さずとも、物質世界であれば「あらゆる物事は変わり続けています」と言われれば、多くの人が「まあそうですね」と言うのではないでしょうか。
しかし仏教のすごいところは、そして私が一番惹かれたところは、物質の話だけでなく心の世界のおいても「変わらないものはない」と説いたところです。
仏教では人の心も常にすさまじいスピードで変わり続けていると説きます。誰もが心の中で様々なことを考え、思い、感情を生じさせています。少し目をつむって自分の心を観れば、誰もが自分の心に膨大な思考や想念が浮かんでは消えていることに気づくでしょう。そしてその思考や想念は止めようと思っても止められず、どんどん生じてくるのも分かると思います。
私も瞑想実践をすることで自分の心がどんなに騒がしいかを実感しました。そして、心が一瞬のうちに変わっていくことも何度も体験しました。
瞑想を始める時にはざわついた心であったのが、瞑想を続けていくと次第に静かになり、かと思ったらふと過去の出来事を思い出し怒りが生じたり悲しみが生じて気持ちが変わり、さらに続けるとそうした怒りや悲しみを受け止めることで穏やかな気持ちになり……など、瞑想すると非常にせわしなく変わり続ける心に気づきます。
そして、瞑想で心を落ち着けることができても、日常の生活に戻るとまたせわしない心に戻ってしまう、という変化も体験できます。
少なくとも自分においては、「心が変わり続ける」というのは確かなことであるという実感があります。
仏教において「無常」を端的に示す表現として以下のようなものがあります。
このフレーズが表現しているのは字義通りで、「こういう条件があるからこういう結果があり、こういう条件が無ければこういう結果は無い。この条件が成立すればこの結果が成立するし、この条件が無くなればこの結果も無くなる」というそのままの意味です。要するに「条件が揃えば結果が生まれるし、条件が無くなれば生じていた結果も無くなるよ」ということです。
私はこのフレーズを仏教の解説書などで何度か目にしていましたが、スカトー寺で修行していた時にプラユキ師からこの言葉を聞いた時に最も刺さりました。それは、プラユキ師がこのフレーズを出された時が「人はより良く変わることができる」という話をされていた時だったからです。
私はスカトー寺での修行以前では、自分に否定的なイメージを強く持っていました。何事にも失敗し続けて社会で役に立たない、出家する覚悟もなく勘違いで仕事を辞めてしまった愚か者、くらいに思っていました。そういう自己認識であったために自分の将来についても暗い展望しか描けていなかったのですが、「此有れば彼有り~」という教えを聞いたことで、そんな私も変わることができる、という希望を抱けたのです。
つまり、
「自分を駄目な人間だと思う心が私の中にあるのはそういう条件がそろっているからだ(此有れば彼有り)。その条件が無くなれば、自分が駄目だと思う心も消える(此無ければ彼無し)。なるほど、だからその条件を変えればこの心も違うものになるんだ(|此《これ》滅すれば彼滅す)」
こう考えることができたのです。
それはおそらく、スカトー寺での修行で確かに自分の心が変わってきた実感があったからでした。
瞑想修行の中で自分の心を深く見つめることができ、自分の気持ちを受け止めることがどういうことか体験として理解でき、そのことで自分の心が変わる経験をしていました。そうした「変わる実感」を積み重ねていたタイミングだったので、「人はより良く変わることができる」というプラユキ師の話も、その話の流れで出てきた「無常」の話も肯定的に受け止めることができたのだと思います。
私にとってこれは大きな希望に思えました。それまでの自分は、価値の無い自分は死ぬまでずっと価値が無いままだと思っていたのに、それは「価値が無いと思う」という条件が揃っているからその結果が生じるのであり、その条件を崩せば「価値が無いと思う心」という結果が崩れるのだ、と気づけたのです。簡単に言うと「私も変われるんだ!」と気づいたのです。
「俺はどうせずっと駄目なままだ…」という諦めは心をとても暗く弱くします。少なくとも私の場合はそうでした。しかし、「私はより良く変われるんだ!」と思えることは心に希望の灯をともし、行動するための意欲をもたらしてくれます。行動すれば今の「駄目な自分」を成り立たせている条件を崩すことができるかもしれません。というか、崩すためには行動するよりほかありません。その行動するための意欲というのを「「此有れば彼有り~」で示される無常の教えによって抱くことができたのでした。
繰り返しになりますが、私にとって仏教は「人は変わることができる」ということを示してくれる教えです。
「人は変わる」というのは、良い方にも悪い方にも変わり得ると言うことなのですが、であるからこそ良い方に変わろうという動機付けにもなります。少なくとも、自分の状況が最悪だと思っていた私にとって「その最悪の状況も変わる可能性があるよ!」と言う教えは希望を感じさせてくれるものでした。
仏教の「無常」という教えは一般には暗い教えだと言われていますが、私にはまさに希望の教えに思えます。みなさんには無常の教えはどのように見えますか?
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!