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『君たちはどう生きるか』を見た感想

 先日、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』を見てきたので、見て来た雑な感想でも書いてみようと思います。

 なお、ネタバレを気にせず感想を書き殴っていますので、これから見る予定の方はどうかブラウザバックしてください。
 見た人、および見る予定がないって人だけ読み進めてください。




 私は「君たちはどう生きるか」の原作の小説についてはほとんど知りません。原作の内容とは直接関係ないという噂だけ聞いています。なので私が知っているのは映画を観て得た情報だけです。また、映画は友人と一緒に見て、見た後その友人と映画の感想等話したので、そのとき友人から聞いた考察等も以下の文章に含まれています。

 映画全体を通して見て思うのは、宮崎駿監督が観客に「君たちはどう生きるのか」と問うている内容であり、かつ宮崎駿監督自身の「私はこう生きる」を表した作品だと思いました。

 物語のエンディングにて、主人公は大叔父から塔の中の世界を託されますが、主人公はそれを拒否し、ナツコとともに現実の世界に帰ることを選びます。
 大叔父からの誘いを断る時、主人公は自分の右こめかみ上部の傷に触れて「これは僕の悪意の証拠(セリフの細部うろ覚え」と言い、悪意のない積み木の石に触れる資格が自分にないと答えました。

 塔の中の世界は「悪意のない積み木の石」に表されるように「穢れの無い理想の世界」の象徴だと思います。
 そしてそれと対比される現実の世界は「悪意のある世界」、穢れも汚れもある汚い世界です。

 つまり、この主人公の拒絶と受け答えは悪意のない理想的な世界に浸って生きることを善しとせず、悪意もある現実世界で泥臭くとも生きることを選んだ、という意味ではないでしょうか。
 
 また、現実世界に戻ると塔の中の世界のことを忘れてしまうのが普通なのに(主人公の母親の久子は塔の中の世界を忘れていたと言及されている)、主人公は覚えていました。積み木の石を一つ持って帰っていたからです。
 これは、ただ理想の世界を完全に拒否したわけではなく、理想の世界のことを覚えていつつ(目指しつつ)現実の世界を生きることを示していたのではないでしょうか。
 理想の世界に浸ることを善しとはしないが、さりとて切り捨てるわけではなく、その理想を目指しつつ現実の世界を生きていく。その姿勢の表れだと思います。
 なお現実の世界を生きるうえで主人公は「友達を探す」と言っていました。自分のように理想の世界を目指しながら現実の世界を生きる仲間を探し、その仲間たちと共に生きていくという決意を示しているのだと思います。

 つまり、無粋ながらこの映画のメッセージを私なりに言葉にすると「清らかな理想の社会を目標にしつつも、現実世界と隔絶して生きるのではなく、現実世界に地に足を付けて生き、仲間たちと共に理想の世界に近づけるように歩んでいく」というのが宮崎駿監督の「私はこう生きる」だと思いました。
 そのメッセージを示したうえで、観客に対して「それで君たちはどう生きるのか」と問うているのがこの映画だと思いました。

以下、雑感。

〇ヒロインについて

 この映画のヒロインはヒミだと思うのですが、私はこのヒロインに終始違和感を覚えていました。正確には、このキャラクターがヒロインのポジションであるのが、言葉が悪いですが気持ち悪く感じていました。

 ヒミが主人公の母親であることは作品中明示されていました。主人公もそれはわかっています。当然ヒミが主人公に対してとる態度は母性的なものになります。でもヒミは見た目は(そして言動も)主人公と同じくらいの年です。なので見た目上、二人が再会して抱き合っている場面などは明らかに所謂「主人公とヒロイン」という感じになっていて、強烈に違和感がありました。ヒミが「もう会えないかと思った」と泣くシーンなど、「相思相愛の主人公とヒロインが抱き合うシーン」という雰囲気でしたが、心の中で「いやでもヒミは君のお母さんだからね?恋人じゃないからね?」とツッコむのを止められませんでした。
 小学生で母親と死に別れた主人公が母親を求めるのは当然のことだと思いますが、それが別の世界で少女の姿をした母親と出会うという話は、私には気持ち悪く感じました。私だけかな?これがnot for meってやつなんでしょうか。

 一応、物語的にヒミが少女である理由は説明されていて、主人公の母親も子どもの頃にあの塔の世界に行って帰ってきたことがあったので、ヒミはその子どもの頃の年齢だったようです。
 まあ、そういう理由は説明されてはいるのですが、どうしてももやっとした気持ちは収まりませんでした。


〇主人公がナツコを「お母さん」と認める経緯

 これが全く分かりませんでした。
 主人公が塔の中の世界に入っていく理由は、アオサギに「母君がいる」と言われたのでそれを確かめるためです。
 さらに主人公はナツコのことを母親と認めていないのは序盤から明らかに示されており、塔の中に一緒に入ったキリコにも「ナツコがいない方が良いと思っている」と指摘されて、そのことには主人公は反論しませんでした。
 ナツコ自身も主人公が自分を拒絶しているのを感じていて、だからこそ主人公が産屋に入った時に主人公に対して「大嫌い」と言い放っています。
 しかし、そのナツコの拒絶からの突然の主人公の「お母さん……ナツコお母さん」呼び。たぶん感動的なシーンなのですが、私はどうしても「え、ちょっと待って、君、いつからナツコさんをお母さんと認めたの?」と困惑してついていけなかったです。
 ここの経緯が分かる方、コメントで教えていただけたら幸いです。

〇米津玄師の曲が最後に流れるのずるい

 私は米津玄師の曲が好きです。一時期毎日聴いていて、通勤中も家にいる間もずっと流している時期があったほどです。好きすぎて逆に聴けなくなって、「米津断ち」をしていたこともあります。最近は聴くこともありますが、新曲には絶対に手を出すまいという謎の誓願を立てています。
 なのに!ラストで米津さんの曲が流れるなんて!
 私は事前情報を入れていなかったので、主題歌を米津さんが歌っているとは知りませんでした。なのに歌声が聴こえたら、そら分かってまうよ…ふぁんだもん…。

 まったく不意打ちに好きな米津さんの歌声を聴いた私の情緒は大いに乱れました。あの映画中、一番情緒が乱れた場面でした。ヤバかった。
 終わり良ければ総て良し、ということで私の中でこの映画は最高になりました。米津監督素晴らしい。……あれ?


 以上です。映画の感想を一言で言うと「米津ヤバい」でした。
 本当にありがとうございました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!