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どういう表現を使うかということは、どういうものの見方をするのかということ

 松葉舎での塾生の進捗報告の時、面白い話がありました。

 その方の話は言葉の使い方についての話題でした。
 
 私たちが普段日常的に使う表現で、体力が尽きたり、元気が無くなったりすることを「充電が切れる」と表現することがありますが、その方はその表現に最近とても違和感を感じる、とのことでした。
 
 その方がどう違和感を感じているかと言うと、私たち人間は機械と違って充電する機構があるわけではないのに、体力が尽きたりする様子を機械が充電が切れて動かなくなる様子になぞらえるという、人間を機械の方に寄せる言葉遣いに違和感を感じるとのことでした。
 機械の方に人間を寄せる言葉遣いをすることで、私たちの心までが本当に機械の方に寄っていってしまうような感覚があってそこに違和感を感じるとのことでした。

 この視点は私になかったので新鮮でした。また、確かに機械に寄せる言い方をすることで、自分の心まで機械に寄る感覚はあるなと思いました。正確に言うと、機械にない人間の心の機微が切り捨てられるような感覚があるな、と思いました。

 言葉遣いが人の心に影響する他の例として、江本さんから「スペック」という表現について話がありました。
 「スペック」とは、Specificationの略で元は「仕様」を表す言葉ですが、今は主にパソコンの性能を表す言葉として使われています。そしてパソコンの性能を表す意味から転じて、人に対してその人の能力を表す表現として使われています。
 
 江本さん曰く、スペックという言葉は新自由主義と相性がいい言葉だそうです。
 パソコンを使う際、要求する作業にスペックが足りない場合、私たちはより高いスペックのパソコンと入れ替えよう、と考えます。それと同じで人を「スペック」で測る際、要求する「スペック」に達しない低い「スペック」の人は、より高い「スペック」の人と入れ替えよう、という発想につながりやすいのです。
 そこには、今は実力の足りない人を「育てよう」という発想はなく、使える人をどんどん入れ替えて使おう、というあたかも消耗品を入れ替えるような発想があります。
 これは、どんな表現を使うか、ということが人の心をどのような方向に引っ張っていくか、ということに影響していることの証左と言えるでしょう。

 人をどのように例えるかということの別の例で、ある宮大工の棟梁は人を木に例えるそうです。木がゆっくり成長していくように、人が成長していくものだととらえて、弟子の指導をしているそうです。パソコンは新しい時が一番性能が高く、時間が経てばに劣化しますが、生きている木は時間が経てば成長してより大きく、価値あるものになります。人をパソコンになぞらえるか、木になぞらえるか、どちらの捉え方をするかによって、人に流れる時間にどのような意味を見出すかがまるで変わるでしょう。また、人を木となぞらえるなら、パソコンと同じように実力の足りない人をすぐに取り換えようという発想にもならないでしょう。
 人をどのようなアナロジーで表現するのかによって、人に対する対応の仕方がまるで変わるということの良い例だと思いました。

 
 また、この話題から、比喩とは何を例えているのか、という話題に広がりました。

 例えば美しい女性がいたとして、その女性を「あの人は撫子のような人だ」と表現した場合。花と人とで造形的な類似点はありません。なので、「撫子のような」という比喩は撫子そのものとその人を比喩したものではありません。
 しかし、私が撫子を見たときに受けた「美しい」という感情と、その女性を見たときに「美しい」と感じた感情には相似性があります。その感情の相似性を比喩で例えたと言えるでしょう。
 つまり、対象A(女性)を対象B(撫子)として例える場合、対象Aと対象Bの相似性を例えているのではなく、私と対象Aとの関係性(この場合は「美しい」と感じた感情)と私と対象Bとの関係性の相似性を例えているのです。
 そして、この「関係性の相似を例えている」表現としての比喩を用い、それが話の受け手に伝わると、「あ~分かる!」という感覚が生じるのでしょう。

 さらに話が展開し、表現方法が物事の捉え方に影響することの例として「体調管理」という表現も取り上げられました。
 現代社会において、会社などで風邪などの病気にかからないようすることを「体調管理」と表現することがあります。「管理」というと、まるで自分の自由に取り扱うことができるように思えます。
 しかし、実際には自分の体調は自分の自由には出来ません。どんなに食生活や睡眠時間に気を配っても、風邪をひく時は風邪を引きます。生まれつき身体が弱く、他の人では何でもないような状態でも寝込んでしまう人もいます。
 つまり、本来は自分の自由に扱うことができない「体調」に対して「体調管理」という言葉を使うことであたかも自分の自由に扱えると錯覚してしまうのです。そして、「管理」できるはずの「体調」を悪化させてしまったなら、それは悪化させた者の責任である、という理屈になってしまいます。
 体調を崩すのは「体調管理」ができていない本人の問題である、という見方は今や多くの人に共有されていますが、体調は本来自分の自由にできるものでは無いので、誤った物事の捉え方と言えます。私たちが「体調」に関してできることはせいぜい「気を付ける」くらいのことで、その結果どういう体調になるかは最終的には分かりません。
 しかし、「体調管理」という言葉が一般的になることで、前述のように「体調は管理できるもので、管理できないなら本人に責任がある」という物事の捉え方までも一般的になってしまいました。
 物事の表現の仕方が、私たちの考え方や物の見方に影響を与えている一例です。


 この話題によってどのような表現を使うかによって私たちの物の見方や物事の捉え方が変わるということがよく理解できました。非常に面白い体験でした。
 多くの人が使っているからと言ってその表現を安易に使っていると、自分の物の見方がその表現に引っ張られてしまうこともよく分かりました。
 言葉を使う時は、自分の実感から出る言葉を丁寧に選んで使いたいと思うとともに、自分が今どのような表現をしているかを観察することを通して、自分の物の見方を省察する助けにしたいと思いました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!