燃える聖母

苛烈な砲爆撃により生じた黒煙が帳と化し、周囲を覆っている。車を建物の中へ頭から突っ込み、積み上げた土嚢の裏に急ぎ停める。降車する前にサイドミラーで自分の顔を見ると、どうも黒い。髪もバサバサになっていて、掌を見ると黒い灰に塗れている。ドライバーのディマの顔を一瞥すると、彼の顔も黒くなっていた。戦争以前は、巨大な工場Азовстальから噴出されるスモッグで夕方にもなれば街中煤まみれになったものだが、今となっては火薬と瓦礫で煤まみれになっていた。

衛星電話でボリスへの定時連絡を試みる。頭を下げつつ走りながら土嚢で出来た壁に貼り付く。電話を取り出し、覗き穴からアンテナを空に向けて突き出し、祈るようにコールボタンを押す。窓に貼り付けた3Mの防爆シートのロゴが目に入った。軌道上にある衛星につなげることが出来るのか、そしてボリスは電話に出てくれるのか、一抹の不安がよぎる。

「こちら"11月のソユーズ"、"11月のソユーズ"、応答願う。どうぞприем。」

返答を待つ、このなんてことのない数瞬の間が永遠のように思えて、苦痛で仕方がない。

10秒ほど待ったが、返事がない。
もう一度繰り返す。

「こちら"11月のソユーズ"、"11月のソユーズ"、応答願う。」

ボリスからの応答を祈る間、喉を通して胃を氷柱で詰められるような感覚が迫り上がってくる。

「こちら”信仰のランプ”、”信仰のランプ”。返事が遅れてすまない。どうぞ。」

バックグラウンドの雑踏と、遠くから響く砲撃音と共にボリスの声が電話越しに聞こえた。無差別に砲爆撃が加えられ、電子妨害でいつ通信が切れてもおかしくない中、唯一安堵を覚える瞬間が彼との連絡だった。これまで通信が切れたことはなかったが、コールからレスポンスまでに至るこの時間が嫌でたまらない。小学生の頃、初恋の女の子に連絡した時に感じた、呼び出し音が長くなればなるほど募る緊張と焦燥感を何故か思い出し、そして懐かしみながら気を紛らわしていた。彼の声を聞いた時一瞬気が抜けてしまいそうになるが、歯をくいしばり、すぐに受話器を取らなかった彼に対する些細な苛立ちを拳に乗せ、それを土嚢にぶつけながら返事をする。

「こちら”11月のソユーズ”。第一目標完了。第二目標へと移行する予定だが、その前に確認をしておきたい。第一目標以外に行うべきことはあるか。”荷200”груз200の回収を行いたいが、危険度が極めて高い。どうぞ。」

「こちら”信仰のランプ”。”荷200”が発生しているということは、避難が遅れているのか、それとも”予想着弾座標”に誤差があるのか。どうぞ。」

「こちら”11月のソユーズ”。”座標”に大きな誤差あり。第一、第二、第三の分類いずれも想定したキルゾーンと一致せず、大きく乖離している。結果、”荷200”が至る所で発生している。”詩人”につなげることは可能か。どうぞ。」

「こちら”信仰のランプ”。”詩人”ロスト。繰り返す、”詩人”ロスト。結果、”連邦の良心”Сахаровへ移行する。繰り返す。”連邦の良心”へ移行する。また、可能であれば”荷200”の推定数を報告されたし。どうぞ。」

「こちら”11月のソユーズ”。”連邦の良心”への移行を了解。従って”聖母”Мариупольを放棄する。”聖母”を放棄する。”荷200”の推定数、目視による確認のみのため、不正確。少なくとも30以上は確認した。なおキルゾーンが”聖母”の至る所に拡大しているため、数はより多いと思われる。どうぞ。」

「こちら”信仰のランプ”。”聖母”の放棄を了解。これからも定時連絡は維持するも、非常事態のため連絡が途絶える可能性がある。いずれにせよ、"聖母"放棄を優先しろ。こちらはなんとかする。どうぞ。ああ、あと”詩人”からの伝言がある。「やるべきことはやる。君もやるべきことをやれ。」とのことだった。どうぞ。」

「こちら”11月のソユーズ”。了解した。これより”聖母”の放棄を開始する。伝言も受領した。通信終了конец связи。」


衛星電話をポーチにしまった。”詩人”がいなくなったことに、なんとも言えない悲しみを覚えた。彼がどのようにして逝ってしまったのか大変気になったし、それを聞くためにもう一度電話をしたい衝動に駆られたが、必要事項の共有・報告に留めるべき定時連絡で、それはするべきではない。今はどうやって”聖母”から逃れ、安全地帯にたどり着くかを考えなければならない。ボリスの安否も気になるが、彼も私に対して同じ事を思っていることだろう。

地獄が顕現しつつある中、包囲が閉じられようとしていた。ディマを含め、この困難を極める状況の中、第一目標完遂にまで漕ぎ着けられるよう粉骨砕身してくれた同志達に”聖母”放棄を伝えなければいけないのだが、彼らは反対するだろう。この街で生まれ育ち、8年間ずっとここで働いてきたのだから。しかし彼らを説得しなければ、我々は終ぞ共産主義の墓標の下に埋葬されてしまう。この場にボリスがいたらなんと言うだろう。絶望が覆い尽くす状況下でもいつもと変わらぬ飄々とした態度で、「まだ一物の付いたバーブシュカを見てないから死ねんなぁ」と、くっくっと笑いながら言い放つのだろうか。きっとそうだろう。そして”詩人”が私に向けた、最後の伝言が何を意味するのかはもう聞きたくても聞けないが、自分の意志で決めたことをやれということなんだろう。
じゃりじゃりとした口の中を水で洗い流し、言った。
みんな、聞いてくれребята, слушай меня。」

私達は西へ向かっていた。安堵感と達成感、やるせなさ、そして人々を地獄へと残し去ったことから来る罪悪感と憤りが混ざり合った感情への、やり場のなさに困惑していた。顔を手で拭い掌に目をやると、黒い煤がついていた。振り返り、後ろに座る同志達を見ると、彼らもまた煤まみれだった。目が合うと瞼に涙を溜めていたのがわかった。流れる涙が作る黒い一筋の線と、その下にある切ない笑みを湛える彼らを見た私は、深い息をつきながら、まだ咲かないひまわり畑に視線を移し、意識を遠くへと追いやった。


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