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「ソ連が存在していたら、こんなことは・・・」 「それは詮無いことですよ」

分断

凍結された紛争地で活動する私と同僚のボリスのやり取りだ。ほぼ念仏のように唱えられる、お決まりのフレーズである。日本語で「詮無いこと」と訳してあるが、ロシア語原文だと相当に卑猥な表現になる (если бы у бабушки был хуй, то она была бы дедушкой「おばあちゃんにイチモツがついていたらおじいちゃんだったのになあ」)。すでに30年前にお亡くなりになったソビエト連邦を偲び(?)、共産主義の墓標の上に点在する血が混ざった糞の山を見つめ、そして時には自分たちもその汚物に塗れながら吐き出す言葉だ。

この地域にいると、そう言いたくなる出来事にほぼ毎日直面する。例えば日課の情報収集のためにテレグラム(ロシア発のSNS。日本で言うLINE)を開くと、登録したチャンネルで糞の投げ合いがロシア語で展開されている。敵対する双方が発信するニュースを引用して皮肉り、罵詈雑言の嵐がコメント欄に続く。つまり2chにあるような便所の落書きだが、ソ連時代は隣人だった人間たちが、地域の共通言語として学習したロシア語をフル活用し、なりふり構わず糞を撒き散らし続けている。誰が発信したのかも分からないフェイクニュースが次々と拡散され、その情報を鵜呑みにする人々が、分断を更に深める。(準)戦時下で醸成される不安がそうするよう人々を駆り立てている。

アブハジア、南オセチア、ドンバス、ナゴルノ・カラバフと転々としてきたが、人々をを結びつけるものはロシア語だけで、それ以外は敵愾心が互いを分断する。分断にうんざりしている人々、分断を利用する人々、無関心な人々。自分たちの力の及ばない政治的重力場で事は為される。無力感に苛まれながらも口に糊し、変わらない凍結された日々を送る。ささやかな日常の中で見つける幸福は、孫娘や息子に会い、彼らの胃袋がはちきれんばかりに料理を振る舞うこと。ダーチャで栽培した果物や野菜を食卓に供し、話に花を咲かせること。ただしそれが叶わない人も多い。戦争ですでに亡くなっていたり、ありもしない罪状で逮捕されСИЗО(拘置所)に勾留されていたりする。

かつて一つだった崩れ行く国で、不確かな時間を過ごした人々が行き着いた先は、絶望と希望が入り交じる、明暗が定かでない微妙なグラデーションに彩られた複雑な世界だ。

レヴォン・アヴァギャンの場合

ソ連軍で航空メカニックとして従軍していたアルメニア人のレヴォンは、ミグ29とスホイに搭載されるミサイルを、毎日丁寧に、愛でるように拭いていた。ピカピカに磨かれた空対地ミサイルを同志と共に肩に担ぎ、戦闘機のペイロードに搭載することが従軍中の何よりの楽しみだった。ソ連軍は唯一、他のソ連構成国の人間たちと会える場所だった。学校でロシア語を勉強していたものの、本格的に勉強を始めたのは軍に入ってからだった。お互いが訛ったロシア語でコミュニケーションを取り、寝食を共にした。そこで一番仲良くなった友達はアゼルバイジャン人のミハイル。ベラルーシのモギリョフ、ウクライナのドニプロ・ジェルジンスク、そしてカザフスタンのバイコヌール近くで、共に軍事演習に参加した。自分たちが磨いたミサイルが演習場で発射されるのを見るのが楽しみだった。

そんな中事態が急変した。1988年にアスケランとスムガイトでポグロムが発生。アルメニア・アゼルバイジャン両国での民族排斥が本格的に始まった。しかしレヴォンとミハイルの関係は変わらなかった。レヴォンは、アルメニアに住んでいたミハイルの妻を安全な場所へと避難させるよう家族に頼み、ロシアへと避難させた。ミハイルはバクーにいたレヴォンの親戚をベラルーシに避難させるよう家族に頼んだ。二人の親族は分断が進む両国を無事に離れることができた。ソ連が崩壊していく中、国内軍は匙を投げ、事態鎮静の希望は絶たれた。ナゴルノ・カラバフ戦争と呼ばれる戦争が始まるまで秒読みだった。

同じ基地に所属していたアルメニア・アゼルバイジャンの「同志たち」は自らの祖国へと帰り、戦争に参加することを決意していた。不穏な空気が漂う基地内。レヴォンとミハイルは一緒にいるだけで顰蹙を買い始めた。ただ一つだけ明らかだったのは、彼らが殺し合うのはまっぴらごめんだったということだ。お互いアルメニアとアゼルバイジャンに帰れば、やがて始まるであろう戦争に駆り出されてしまう。彼らは共に国を捨てることを決心した。レヴォンはベラルーシにいる親戚を頼り、ミハイルはロシアで待つ家族の元へと向かった。再開を誓ったものの、彼らが出会うことはなかった。

ソ連崩壊後、特にカラバフ戦争後の生活はひどかった。電気は一日2時間しかなく、料理や洗濯など身の回りのことはその間にしなければならなかった。もちろん、配給はなくなっていた。近所のパン屋や牛乳屋がなくなり、物資不足に陥った。ソ連時代の「おいしかった」パンは消え、岩石のように硬く乾いたパンしか手に入らなくなった。お気に入りのラヴァシュ(紙のように薄いパン)も店頭から消えた。戦勝ムードに包まれたエレバンで一人ぎこちなく振る舞うレヴォン。久しぶりの故郷に戻ったものの、余りにも景色が違いすぎている。

戦勝パレードが行われていた。空爆の際真っ先に地面に伏せるようソ連軍で教わった彼は、戦闘機のエンジンの音を聞いた時、反射的に地面に伏せてしまった・・・子連れの親が奇異の目で彼を見た時、なぜか得も言われぬ孤独感に襲われた。

ボリス・スヒラゼの場合

彼はアブハズ自治ソビエト社会主義共和国で、ロシア人とグルジア人の両親のもとで生まれ育った。両親は共にエンジニアで、大変に教育熱心だった。余りにも教育方針が厳しすぎたせいか、学校の授業をサボることもしばしば。ただおかげで他が苦手としていた数学・物理の得点は誰よりも高かった。サボるくせに点数が高いことを、教師は不満に思っていた。スフミ国立大学の物理学科に入学したものの、教授が気に食わず海岸でよく授業をサボっていた。

家で栽培している自家製ワイン用の葡萄を一房もぎりとり、海辺へと向かっていたところ友人のダヴィドが少々深刻そうな顔をして向かってきた。「大学がやばくなりそうだぞ」。一瞬サボりすぎて卒業できなくなるのかと思ったがどうやら違うみたいだ。そんなことも気にせず浜辺でぶらぶら・・・というわけには最終的にいかなくなった。スフミ国立大学がトビリシ国立大学に吸収合併される話が持ち上がり、これに反発したアブハズ人がグルジア人と衝突し、18人の死者が出てしまった。しかし正直彼にとってはどうでもよかった。母親はグルジア人だがアブハズ人との混血であるため、ソ連の縮図とも言える彼自身は、民族紛争にとんと興味がなかった。一体何のために戦っているんだと。そんなこんなでコントロール(試験)を無事済まし、卒業にこぎつけることができた。

仕事をせず家で腐っていたところ、ソ連が崩壊した。仕事をしないだけで懲役を食らいそうになっていた彼にとっては嬉しい話だった。生活自体も大きく変わることはなかった。食べ物は全て自活しているし、酒も自家製ワインとチャチャ(蒸留酒)がある。世は並べてこともなし。しかし1992年6月、家からさほど遠くない市庁舎が攻撃を受けたという知らせを聞いたときは流石にまずいと感じた。刑務所から囚人が解放されたという噂も入ってきていよいよきな臭い。両親はモスクワへ逃げる準備を進めていた。

「獣がやってくる」。両親はそう言った。カフカースの人間たちは自分たちを非文明的だと自嘲することがあるが、チェチェンやイチケリアにいる人間たちは悪い意味で一目置かれていた。カフカース山岳人民連盟と呼ばれる、あの悪名高いシャミル・バサエフが属していた武装組織がスフミになだれ込もうとしていた。すでに軍規が乱れているグルジア軍の蛮行だけでも手一杯なのに、さらに滅茶苦茶になってしまうのか。友人のダヴィドとはもう連絡がつかない。死んでしまったのだろうか。もう周りを気にする暇も余裕もない。皆逃げるのに必死だった。

ついに待ち望んでいたロシアの黒海艦隊がやってきた。持てるものを全て担ぎ込み、生まれ故郷のスフミを離れることになった。避難船はセヴァストポリへと着港、下船した時に周りに知り合いがいないかと見回したところ、誰もいなかった。後日、スフミから逃げた人々がコドリ渓谷経由で避難しようとしたところ、大勢死んだというニュースを見た。あの気に食わない教授は無事逃れることは出来たのだろうか。モスクワへ向かう途中親戚がいるドネツクに立ち寄った。20年後にまたこの地を訪れるとも知らずに。

幻想のバーブシュカ

この凍結された紛争下でも、自尊心を保ち、希望を捨てず、粘り強く分断に立ち向かう人々を時折目にすることがある。旧ソ連世界の良心とも呼べる彼・彼女らの人生と生き様に触れると、こんな世界でもなんとか頑張ろうと思えるようになるのだが、少し経つとまた、糞の山の中でのたうち回っている。振り子のように行き来する私達の感情は一体どこに収束していくのかはわからない。飄々としたボリスは、一物のついたバーブシュカを想い続ける。そして私は、彼のどこか悲しみを帯びたそのお決まりの言葉に、またお決まりの言葉で返すのだ。

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