【エンジニア→1児のママ→IT博士→スタートアップ起業】モンゴル人の私がなぜ起業したのか
モンゴル少女として意識した環境問題
中国内モンゴル地域のごく普通の公務員&モンゴル人の家庭に、次女として生まれました。父も母も純モンゴル人で、特に母世代の方々は内モンゴルの呼倫貝爾大草原(ホロンバイル大草原)に昔から定住していました。
小学校時代、毎年、母親サイドのおじいさん・おばあさんの家で夏休みを過ごしていました。今から20年ほど前は草原はこんな感じでした。毎日、日が昇ると家族で起きて、ミルクを搾りに行き、日中は草原で走り回って、動物と遊ぶ日々でした。
草原の際は空と繋がっていることが当たり前だと思っていました。
ところで、中学の時、夏休みに、おじいさん、おばあさんの家に行くと、草原はこんな風になっていました。
川から魚が消え、羊も牛も全部放牧ができなくなり、人々も遊牧生活ができなくなり、街に移住し、就職することになり、生活がガラッと変わりました。人々の顔から笑顔も消えていったようでした。
当時の背景を反映した作品「狼图腾」では、自然が壊れることによって、人間も含め動物達の変化を描写しています。私の先祖達がよくこのように言っていました。
大学時代で初めて環境問題を調査
慣れないソフトウェア工学という専攻
小学校の頃から勉強が得意だった私は、母親と対抗するため、ソフトウェア工学という専門を学ぶことを選びました。母親は、女の子は学校の先生か、銀行の職員がベストと言っていたので、反抗期だった私は、当時興味もなかったソフトウェアを敢えて選択しました。
高校までモンゴル語で教育を受けていたため、大学に進学し、一般的な漢民族と一緒に中国語で勉強することになりました。最初は、中国語に慣れず、成績も入学当時から一気に悪くなり、自己険悪に陥ってしまいました。
元々勉強ができた私は、モンゴル人の中ではできる方でも、大勢の漢民族と比べるとできないのだと毎日自己嫌悪になりました。特に苦手な科目は、プログラミングでした。
元々文系が得意で、プログラミングで地道にコードを書くことがとても苦痛でした。
その後一心不乱に勉強し続けた結果、大学2年になってようやく普通の漢民族の学生レベルに追いつき、卒業時は学年のトップ30%に入り、無事卒業することが出来ました。
ボランティアをして環境問題を調査していた大学時代
大学3年の時に、ようやく勉強以外に少し時間ができたため、今まで気になっていた環境問題を解決するにはどうしたら良いかを調べたいと、当時の学生指導の先生に相談しました。当時天津市役所が環境部門の大学生向けにボランティアを募集していたため、ご紹介いただき、2ケ月間天津市で空気汚染で有名な「静海区」の汚染の原因を調査し、報告書を書く仕事をさせてもらいました。
沢山のインタービューを行う中で、古い家電製品を回収し、それを燃やすことで希少金属を販売している小さな業者さん達に、なぜ「環境に悪いことをしてまで、このような工場を続けるのですか?」と問いかけた結果、衝撃的なことを言われました。
環境問題を解決すると口先で言うのは簡単です。
ただ、環境を良くする仕組みを作って、その仕組みに参加し、経済的な豊かさとライフスタイルのhappinessを両立させないと、環境問題を解決することができないと思いました。
今思えば、それが私が初めて起業すると決めたきっかけでした。
残業に明け暮れた派遣時代
大学卒業後、まずは中小企業で修行しようと思いましたが、なんと毎月60−80時間の残業で、残業費も出ない会社でした。その後、トヨタ自動車に入りたいと思い、入る方法を探し、1年半ほどエンジニアとして派遣業務をしていた先、結婚、出産することになりました。
家庭主婦から大学院生
当時は派遣会社から仕事への復帰の催促がありました。とはいえ、幼い子供をほっておけない中、専業主婦を1年間続けました。夫は理解があるものの、小さな息子を見ていて、こんな人生でよかったのかと、毎日自問自答していました。
”いや、私は起業したかった。環境問題を解決したかった”
とフッと思い出し、大学卒業して6年後でしたが、再び微分積分・線形代数から苦手だったプログラムまで復習し、受験勉強を開始しました。
危機をチャンスに
決して、受験勉強は容易ではありませんでした。子供を寝かしつけたら、すぐ勉強していました。娯楽はアメリカのドラマ鑑賞のみです。英語TOEICの点数獲得のため、ビジネス英語を使う弁護士ドラマ"The Good Wife"のみを見ていました。
結果、院試、2回落ちました。
3回目でようやく院試に合格できました。その時の感動は今でも忘れられません。院試の準備を始めた頃は、子供がまだ0歳児でした。受かった時、既に3歳になっていました。
修士・博士課程を6年半かけました
院試に合格することだけを願っていましたが、受かったらまたさらに試練が始まります。日本語で日本人の方と同じ授業を受け、また日本語で試験に参加するので、英語だけでは通用しないのです。子供を保育園に送り、そのまま学校に行って、勉強・授業・実験して、論文を執筆する生活で、修士・博士と合わせて6年半をかけました。
途中に投げ出そうとしました。何度も、何度も。
でも、子供を保育園に預けて、小さな彼を他人に預けるまで選んで選択を、
正しいものにする以外、死ぬ時後悔しない道はないと思いました。
結果、今となっては相当大変だっだと思いますが、当時は鈍感な性格のおかげで、なんとかやり遂げました。何より支えてくれた家族に感謝しかありません。
自分のアイデンティを希少価値に転換
情報学という分野で活躍する女性は未だ少ないです。私が在籍した大学院の博士課程には、私以外数人しかいなかったのです。しかも、ほぼ全員留学生でした。その中で私だけが育児ママでした。
コンプレックスでしかありません。
最初は「私なんか」と思って、授業に行っても最後の列に座り、質問がよぎっても声を上げるのを避けていました。
オハイオ州立大学に訪問留学
共同研究先のオハイオ州立大学に訪問したことで転機が訪れました。
留学中、子供が産まれてはじめて、自分のまとまった24時間ができました。アメリカの大学院では女性が少なくありません。みんな活発に研究の討論や意見を声に出していました。同じ研究室に子育てアラビアン人のパパも通っていましたし、17時になると子供を迎えるために帰宅していましたし、それこそ白髪の方でも普通にキャンパス内を歩いていました。
そうだ。研究は自分のために行うもので、年齢も、性別も関係ありません。
化粧市場のアンバランス
そこから日本へ帰ってきて、ある大手化粧品メーカーのビューティアドバイザーの研修を受けた時に、化粧品の高頻度な消費者である私たちが、毎日使っている製品に対して、全く理解していないことにとても違和感に思いました。
スキンケアの効果を理解せず、ただこの先CMや雑誌の意見ばかりで商品を買っていては、飽きるのも早いし、苦痛になるとすら思い始めました。
IT出身の私ならスキンケアという分野を変えられるかも
と思って、起業することを決意しました。IT業界の女性、化粧品業界のIT、どれも自分のアイデンティティを希少価値に転換することができると思ったからです。
データオリエントな時代は
今でも80%の女性、50%の男性はスキンケアを毎日行なっています。
でも、その中で、自分の肌がスキンケアによって改善されていると確信している人はどのくらいいるのでしょうか?
私たちはその効果を数字と客観的な指標で可視化し、ユーザーに本当に価値あるスキンケアを提供できるデータオリエンテッド時代を切り開くことを目指し、邁進していきます。
大量生産、大量消費、その商品によって顧客が満足に至らないマーケットドリブンの時代はもう限界だと思います。ユーザーの体験をデータから観測しつつ、良いスキンケアが適応するユーザーの手元に届けられる仕組みを作ることが、私が環境問題へ出した一つの答えだと思っています。
それを私たちはデータオリエンテッド時代だと信じて進めます。
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