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毒親を許す必要があるのか?自分の人生を取り戻す

読んでくださってありがとうございます。
自分は機能不全家族(毒親)のもとで育ち、
精神疾患(うつ病など)で苦しみ、そこから回復した経験があります。

自分の回復までの話はこちら

今回は
主題:毒親を許す必要があるのか?
副題:自分の人生を取り戻す
というテーマで自分の経験を紹介しながら記事を書きたいと思います。

毒親を許す必要はあるのか

早速結論です。
毒親を許す必要はないです。
終わっちゃいましたね(笑)

許すという行為は人から強要されて行う行為ではありません。
「許す」「許さない」の権利は当然自分の手にあります。

また、頭で考えて「許そう」と思って「許す」ということも出来ません。
「許す」という行為は親への怒りの感情を手放す行為で、感情の解放が必要です。

いつまで親のせいにしてるんだ
いいかげん前を向け
ずっと過去に囚われてどうする

こんな声には一切耳を貸す必要はないです。
親から愛されてきた甘ちゃんの戯言です。

では、なぜ「毒親を許す」という毒親育ちにとって受け入れがたい言葉が出てくるのでしょうか。

それは、精神疾患からの回復や自分の人生を取り戻す過程で「毒親を許す」というプロセスを通ることがあるからです。

実は自分もこのプロセスを通った一人です。

自分は親に対し強い怒りを持っていました。
しかし、自分は精神疾患から回復し、自分の人生を取り戻す中で親のことを「どうでもいい存在」と思えるようになりました。

過去、親が自分に対して行った数々の行為は容認できるものではないと今でも思っていますが、親への怒りをもう持っていないので許したともいえるのかもしれません。

親への怒り、それは当然の感情

親への怒り。
親から愛されてきた人にはわからない感情かもしれません。
親は大事にしなければならない存在だと疑わず、それが万人に当てはまると思ってます。

「俺、親を大事に出来ない奴って嫌いなんだ」
みたいなセリフを平気で言います。
その無頓着さ、反吐が出ます。
この人たちは家の鍵が開いたときの恐怖を知らないのでしょう。

親への怒りは機能不全家族で育った人からすると当然の感情です。
機能不全家族で育った人達は、
子供らしく過ごせる期間は殆どなかったんじゃないでしょうか。

「良い子でない自分は捨てられる」という思いから親が望むような行動をし、自分の感情を押し殺します。

親の機嫌が悪いのは、
「お前が○○だから、お前が○○出来ないから」となぜか子どもの自分のせいにされます。
親の機嫌は揺れ動き、時には殴られることもあります。親の機嫌を損なわないように伺う日々。

親の愚痴も子供である自分が聞いてあげます。
子どもの自分が精神的に優位に
親よりも大人になる必要があります。

家庭という場所が安らげる場ではなく常に地獄。
楽しむことが許されない。
「俺が機嫌が悪いのに、お前は気楽でいいな」
と楽しむことに罪悪感を植え付けられます。

そんな地獄を生き抜くのに、必死に必死に頑張るのです。
地獄の日々を生き抜いて、大人になった。
けれど、待っていたのはさらなる地獄です。

子どもらしい子ども時代を生きることが出来なかった人達は、思春期から大人になる頃に精神的に不安定になります。

情け容赦なく自分を批判する。
何でも楽しむことができない。
自分のことを深刻に考えすぎる。
他人とどこか親密な関係を持てない。
常に承認と賞賛を求めている。
完璧な自分を追い求める。
自己肯定感が極端に低い。

恐怖心、怒り、精神的な傷つき、恨み、
邪推、孤独感、悲哀、屈辱感、自責感、
無感動、「黒か白か」の0or100思考
消えてくれない死にたい思い。

上記のように精神的に様々な問題を抱え、大人になります。
そして、自分の我慢の限界が許容できる範囲を超え精神疾患になるくらい追い込まれ初めて気付くのです。

自分の人生は親によって滅茶苦茶にされたと。
親への怒りは感じて当然のものです。
許そうと頭で考え、簡単に許せる大きさのものではないです。

自分自身も高校生~浪人生活~大学生と思春期を精神疾患で苦しんだ経験があります。また、精神疾患が治った今でも「見捨てられ不安」は根強く残っています。

親に人生を滅茶苦茶にされた自覚はあり、親への抑圧された怒りに気付いた当時は親へ包丁を向ける位、強い怒りの感情を持っていました。

怒りの感情について

怒りという感情はネガティブなイメージがあります。しかし、怒りというのはとても大事な機能を持っています。

誰かが自分との境界線を越えたり、
自分を傷つけてきたのを知らせてくれる。
何かを変える必要があることを教えてくれる。
脅威にさらされた時に自分を危機から守ろうとする力が湧く。
人に危険な行為をやめさせたり、有害な人間関係を終わらせるのに役立つ。

毒親育ちが親からされた不当な行為に気付き
親への怒りを自覚することは
操り人形とされた人生から脱却する
自分の人生を歩む回復の一歩だと言えます。

怒りの感情を持つことの弊害

親への怒りは抑圧されていることもあります。
本来だったら、愛し愛されたい親。
親を恨むこと自体に罪悪感を覚えたりもします。

特に親が気まぐれで優しくされた経験もある人は、愛してる、愛してないという両価性(アンビバレンス)のメッセージを受け取ります。
虐待、もしくはそれに近いことをされながらも、その優しい思い出があるために、自分は愛されていたんじゃないかと願うことで親を恨むことが難しくなります。

しかし、本来親へ向くべき抑圧された親への怒りは、矛先を変え、自分を容赦なく責め立てるようになります。

「親に望まれたことができない自分が悪い。
自分が駄目な人間だから親に愛されないんだ。
生まれてきてごめんなさい。」と。

抑圧された怒りは、激しい自己批判へと変わり抑うつ状態に陥り罪悪感を抱えます。
また他にも、抑圧された怒りは不安を引き起こしたり、感情を麻痺させ無感動になることもあります。

怒りを感じる相手から自分を守るために感情を感じないようにすると、怒りは敵意や恨みという激しい感情になります。

激しい感情を変えるのは困難です。
激しい敵意や恨みは、脅威から身を守るといった意味がなくなった後でも、長い間続きます。

慢性化した怒りは慢性的なストレスの原因になります。心臓血管系、内分泌系、神経系、生殖器系など身体的に悪影響を及ぼします。

親への怒りを持つこと自体は、当然の感情ではあるのですが、自分自身を更に苦しめています。
親へ怒りを持っているのは『親に死んで欲しいと願い、自分が毒を飲んでるようなもの』です。

怒りから解放されないのは何故か

自分自身をも傷つけることになる怒り。

歩いてすれ違った時にぶつかった人に対して怒り覚えることは誰でもあると思いますが、その怒りの感情をいつまでも持っている人はほとんどいないと思います。
それは一過性のものでいつの間にか消えています。

しかし、毒親への怒りから解放されないのは何故でしょうか。

毒になる親などの本を読み、自分の親にいかに不当に扱われたかを自覚し、親へ怒りを直接ぶつけても、SNSやブログでかつての親の悪行を羅列し親への怒りを発散しても、その憎悪の火は消えません。

親への怒りが消えない原因はどこにあるのでしょうか。

まず一つに怒りを持つこと自体が嫌だと否定してることがあるかもしれません。

激しい怒りという感情はかつて自分が軽蔑した親そのものであり、その醜い親と同じ存在となってしまった自分を認めたくないのです。
親のようになりたくないと思い、それだけを願い生きてきた人にその現実はとても残酷です。

二つ目に、怒りを手放すことを自分が拒否してることが考えられます。

怒りを手放すことが、毒親から受けた許されざる行為を容認するような感じがすることがあると思います。

でも、怒りを手放すことと親の行為を容認することは違います。自分は今でも親がかつて自分に対してやった様々な行為は法的に裁けるものだと疑いありません。家庭というグレーなところだから法的に裁くのが難しいだけで、家の外で同じことをやったら犯罪です。

三つ目に、自分の人生を滅茶苦茶にされた責任を親にとってほしいという願いもあります。

しかし、この願いは叶えられることはありません。どれだけ訴えても親の態度は変わらないでしょう。
「そんな昔のことを引き合いに出すな。もう終わったことだろ」こんな感じで謝るどころか否定することが殆どだと思います。
まあその程度で変われば、毒親でもないし精神を病むことは無かったはずです。


でも、もし親が過去の出来事を誠心誠意謝ったとしましょう。

それで許せますか?
誠心誠意謝ってることをそもそも疑わずに受け入れられますか?

ほとんどの人は謝られたからといって、親を許すことは出来ないと思います。
「今頃謝られてももう遅い」
「謝られた自分は許さなければいけないのか」
「自分が持ってるこの辛さはどこに持っていけばいいのか」など
許すとは程遠い思いを抱えると思います。

要するに、親が謝ったとしても怒りは消えないのです。

また、仮に親が本当に改心したとしてもそれもそれで悪影響を及ぼします。
そうなると親は子どものニーズを何でも満たしてくれる存在になろうとするでしょう。

しかし、それは自分の人生を親に丸投げすることになります。全ては親次第という輪廻から逃れることは出来ていないのです。
自分の人生を自分で生きるという機会を失うことになります。

怒りは二次感情、隠れた想いに気づく

親への怒りが消えない原因は怒りによって隠された感情がそのまま残ってるからです。

怒りという感情は二次感情と言われます。
二次感情とは、ある感情(一次感情)が発生した後に発生する感情という意味です。

怒りという激しい感情は、柔らかい感情を裏に隠しています。
怒りは、傷ついた、怖い、悲しい、愛されてないように感じる、寂しいというソフトな感情を見なくても済むように自分を防衛し守ってるのです。

親への怒りの感情の裏には何がありますか?

自分の満たされなかったニーズ

自分は親への怒りの裏には様々なソフトな感情が隠れていました。

愛してほしかった
家で暴れないでほしかった
自分を大事にしてほしかった
自分の意志を尊重してほしかった
自分の領域を認めてほしかった
ありのままの自分を受け入れてほしかった
暴力を振るわれて悲しかった
子供らしい子供として生きたかった
もっと楽しい思いをしていたかった
自分が辛い時、その感情を押し潰すのではなく受け止めてほしかった
素敵な家族のもとに生まれたかった
自分の人生を自分で生きるのが怖い

過去に満たされなかったニーズは本当は親に埋めてほしいものでした。
だから、親への怒りが止まらなかったのです。

自分はこれらのニーズを親に満たしてもらうことを諦めました。それは自分にとって凄く悲しい決断でした。

自分で満たされなかったニーズを満たす

自分は過去満たされなかったニーズは自分で満たすことにしました。

アダルトチルドレンなどの本で言う、インナーチャイルドを癒すというものです。
余談ですが、今だとスキーマ療法やセルフコンパッションにも通ずるものがありますね。

過去の辛かった出来事を思い出し、過去の自分に今の自分が会いにいき、辛かったね、頑張ったねと自分で自分に思いやりを向け労うのです。

自分はまだ過去になっていない記憶と向き合い、辛い思いをした子どもの頃の自分を癒すことで、ようやく過去を過去にすることができました。

悲しみを癒した先にあったもの

自分が過去の悲しみの感情を昇華出来てから、自分の中で変わったことがありました。

親が強大なものと思っていたのですが、親自身も傷ついた存在で、自分の中でとても小さく思えるようになりました。

実は自分の父親も機能不全家族で育った過去があり、自分のありのままを受け入れてくれなかったのは、父親自身が完璧主義になることで必死に生きてきた結果だったんだと気づきました。

また、親への怒りをずっと持っているのは、嫌いな存在である親に自分の人生を呪いの鎖でいつまでも縛られてるみたいで嫌だと思えるようになりました。
結果として、親への怒りを手放すことになりました。

そして親への怒りを手放すことは、親のせいにせず、自分の人生を自分で生きるということを選択したことになりました。
この選択は当時の自分にとってはかなり辛かったです。

まとめ

毒親を許す必要があるのかという問いには必要ないというのが自分の意見です。
ただ、許すという行為は自分の人生を取り戻すプロセスの中で通るかもしれないとは思います。

別にそのプロセスの中で通らなくてもいいと思います。
許したくないなら許さなくていいし、怒りを持つ必要がないなら許してもいい。
その決断権は自分にあります。

また、過去に向き合うかどうか、自分の感情に向き合うかどうかという選択肢も自分の手の中にあります。
それも人から強要されるものではありません。

ちなみに自分は過去に向き合ったことで、フラッシュバックし一度挫折してます。(詳しくは自分の経験談を見てください)

最後に。
もし自分の人生を取り戻すことを行うのであれば、それは辛い作業になります。

辛い感情を持っていることに気づき、その感情と闘ったり感情を無いものとせずに受け止め、自分へ思いやりを向け感情を感じ尽くすことで昇華させる。
文章で書くのは簡単ですが、実行するのは非常に辛いです。言うは易く行うは難しです。

まあそりゃそうですよね。
辛い思いをこれ以上したくないから、感情を抑えてる(人によっては解離する)のに感情と向き合うのは怖いと思います。

とはいえ、乗り越えた先には違う景色があることはその経験をした自分が保証します。

長くなりました。こんなところまで読んでくださりありがとうございました。

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