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蓋を、開ける。

「クリエイティブな仕事から離れる覚悟は───」

入社時の面接で問いかけられたその言葉の意味を本当の意味で理解したのは、入社から1年と3か月と少し経った時だった。


2023年12月16日放送のNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀 ジブリと宮﨑駿の2399日』をNHK+で視聴した。

残念ながら多忙を言い訳に最新作『君たちはどう生きるか。』を観られていない。今回の特集は最新作の制作に密着したものだろうから、ネタバレはするだろう。しかもきっと、核心をつくような。けれどなんとなく、観なきゃいけない気がしていてネタバレを恐れず視聴した。

引退を宣言した宮崎駿氏が、引退を撤回し最新作に立ち向かう。
そう一言で言うは易いけれど、そこにあったパクさん───高畑勲監督の死に対峙し、壮絶な片思いとその大きすぎる存在を乗り越えようとする。
そして何より、映画を生み出すために大いに苦しむ姿はずっと遠くにいる映画監督としてという存在を、「たったひとりの人間」としての姿を浮き彫りにし、ぐっと身近に感じさせた。
簡単に乗り越えられるはずのないパクさんについて、「ずっとお通夜やってんだ」と口にする監督の一挙手一投足から、無意識に大学でお世話になったN先生の死を知って1年以上、ふっと思い出しては心の中で繰り返しお通夜をしている現状から抜け出すヒントを得ようとしていた。
「ああ、宮崎駿監督も人間なんだ」と強く意識し、また、お通夜は続いてしまっていてもおかしくないのだと思わせてくれた。


前職で僕はとある中小企業の自社製品のカタログ制作部門に8年半身を置いた。宮崎駿監督の偉業の数々に比べれば、足元どころか足の爪のひと欠片にも及ばないクリエイティブだったと思う。しかしそれでも、8年半しがみ付くくらいには僕はその仕事を愛していた。

そう、愛していたんです。

コンテに向き合う宮崎監督は制作中に自身に起きる現象を「脳みその蓋が開く」と表現した。
死に物狂いでクリエイティブに立ち向かったことがある人は きっと「脳みその蓋が開く」感覚に覚えがあるんじゃないかと思う。そしてそれは僕にも間違いなくあったのだ。
視野がとことん狭まり、誰も近寄らせたくないような、心が鬱蒼としてざわざわと波立ちまさに自分とクリエイティブが対峙する、感覚。その感覚は殺伐としていて、それでいてジェットコースターや暴風雨の中で振り回されるような暴力的なスピードを伴うもので、ほとんど麻薬のようなものだと思う。
僕は監督が苦しむ様子を見ながらあの感覚を夢想しながらぼんやりとした羨ましさを覚え、やっと「ああ、僕はあの仕事を心底愛していたんだ」と気づいた。
「クリエイティブな仕事から離れる覚悟とは、これか」と気づかされた。

前職を辞める、というか夜逃げのように離れたあの日。僕は本当に「明日出社したら、おそらく年単位で働けなくなる」という確信があった。自分は今まさに追い詰められて断崖絶壁の淵に立っているのだと思った。
前職から逃げ出し、今は企画者ではなくサポート役としてクリエイティブの進行管理に専念する仕事をして、ほとんど定時上がりで帰っている。何の後悔もない。むしろ潰れる前に自分の限界に気付き、自ら方向を変えることが出来た自分が誇らしいくらいだ。

しかし、しかし、あのクリエイティブに没頭するあの没入感と答えを探して脳みその中を高速移動する、目がチカチカするような感覚の魔性が惜しくなるのも本音。一度快感を覚えてしまえば最後。再現性を持たそうとすればするほど身を滅ぼしてしまうことはわかりきっていた。
もしかしたら身を滅ぼさないような向き合い方も出来たかもしれない。だけどあの快感は、身を滅ぼそうとするような追い詰め方を必要としていたとしか思えない。
苦しくて苦しくて。身も心も傷つけた。3か月にいっぺん発刊されるカタログをつくる過程で、泣かなかった号は1つか2つ。吐かなかった号も片手と少しくらいなんじゃないか。いつもトイレで泣いたし、吐いた。校了前の記憶はいつも途切れて校了後に思い出そうとしても覚えていないことも多かったから、どちらも正確な回数は定かじゃない。今はもうないけれど、忙しさがピークに達すると仕事の話をする自分に対し、「今誰が話しているんだろう」と思考だけがぼんやりした離人症の症状が出ることも珍しくなかった。

追い詰める方法しか知らなかった。
だからこそ今の僕がいるし、前職に勤めたことも後悔はしていない。

ただ、会社のことは変らず憎くても、編集という業務や撮影に携わることを「愛していた」と自覚するのに、退職から2年近くを要した事実にもの悲しくなった。
もしかしたら、ずっと蓋をしてきたのかもしれない。
それともあの感覚を得られないように感じるから、惜しいのか。
きっとないものねだりなのだと思う。僕は欲張りだから。

大人になると、考えても仕方ないことには蓋をして精神衛生を保つのだと思う。もっとも、初めからそういうものには見向きもせずに生きられる人たちも多いのだけど。僕と同様に「考える」呪いにかかっている人はおそらくそうだと思う。
その蓋をふいに開けるのは、自分である時は苦しみしかないのに、こうして第三者に開けられてしまう場合は、答えを伴った言語化に繋がることも多いのだとも考える。
今回の前職に対する憎悪を詰めたはずの入れ物の蓋は、宮崎駿監督によって開けられ、おどろおどろしい色をしたぐちゃぐちゃの中身からは、突如として「愛していたのだ」という真っ当な輝きを持った答えが出てきてしまった。
僕が言語化がすべてだと思えないのは、こういうことがあるからだ。
ただただ憎らしい存在でいてくれた方が楽なのだから。「愛」なんてむしろ気付かない方が良かったかもしれない。

もう仕事にギラギラ出来る心の体力はない。
穏やかに暮らす幸せを知ってしまったから。

宮崎駿監督は、「若い頃は仕事のし過ぎで気が触れるなんて誉れだと思っていたけど、なってみると面白くもなんともない」と言った。
それが真実なのだろうと、理解できる年齢にはなった。
それでも僕は後悔のない毎日の中で、きっとあの感覚とどこかで再会しいたいと思っているんだろう。
その執着やある意味での依存が、僕のつくることへの愛の正体なのかもしれない。
良いように考えようとするのならば、心も身体もうんと若いうちに知らず知らずの内に愛した仕事に気がふれてしまいそうな程うち込めてよかったのだ。あくまで僕の場合、歳を重ねてからでは身を滅ぼしたような気がするから。
一時的なものかもしれないけれど、答えを出せたのだからまたこの入れ物には蓋をすることにする。僕は十分苦しんだし、十分愛せたのだから。



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