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思春期を”生き延びた”あるティーンエイジャーの記録

長く生きていると、どん底の時期というものは何回も経験する。私も人生で数え切れないほど地獄に突き落とされている。そのひとつひとつがとても重厚なエピソードである。かくいう今も地獄の真っ最中ではあるのだが、幸いにも家族環境に恵まれ、その地獄を笑い飛ばせている。

しかし人生哲学がある程度固まっている年増女の経験している地獄と、多感なティーンエイジャーが経験する地獄は、全く質の違うものである。痛みに慣れていない純粋な心が、純粋な悪意のナイフによって鋭く引き裂かれる痛みは、筆舌に尽くしがたいものである。

一部の大人は、思考を放棄して”どちらも被害者だ”とか言う。傷つけられて、虐げられている側の人間にとって、こんな地獄はないと思う。ティーンエイジャーの抱える心の苦しみを軽々しく「時間が解決するもの」「慣れていくもの」と、ゆっくりと時間を取って向き合わずにやり過ごそうとする大人がいる。これも非常にやるせないことだ。

私は子供じみた大人であるが、それでも社会人であり、大人の端くれである。大人だって辛い。お金を稼ぐために時間が無いとか、精神疾患を抱えているとか、スケジュール的に地獄の渦中にいるとか。そういう”大人の事情”は想像できる。しかし私が、「ティーンエイジャーこそが、最も時間を取って話に向き合うべき存在である」という考えを変えることはない。

"大切なのは幼児期"とばかり言われる世の中だ。確かに幼児期は大事だが、私は同じくらい、ティーンエイジャー期を重視している。スキンシップで解決できなくなった年齢だからこそ、心にしっかりと寄り添うことが重要なのだ。そうしないと一生を棒に振る可能性があると思っている。だから、自分の子供がその時期に入ったら、一挙一動に目を配り、場合によっては仕事を辞めてでも、その悩みに寄り添う覚悟でいる。勉強や部活での成績が振るわないとか、表面的なことを気にしている場合ではないケースがある。そう感じるのは自らのティーン期が、文字通りの地獄で、体感では北斗の拳ばりの修羅の道だったからである。

以下のその一節を語ります。こういう体験ばかりではなくいろいろな体験もしたし、高校時代も大学時代もその後もいろいろとありましたが、とりあえず人生で一番つらかったと思われる中学時代の思い出話を、フラッシュバックが起こらない範囲のみで書きます。

※以下、リストカット、自殺未遂などの話が続きます。全て包み隠すことなくリアルに寄せて書いています。PTSD持ちの方、流血表現に抵抗のある方はくれぐれも閲覧しないように思います。

家庭環境

中学二年の時が、人生で一番どん底の時期であった。正直に言って、こうして振り返るのも辛い時期である。

本当に様々な人間関係が交錯する中学だった。クラスでは、誰が可愛いとか、誰が頭がいいとか、誰が足が速いとか、”どうでもいい”話題で皆、頭がいっぱいだったらしい……

……”らしい”とおぼろげな表現をしたのは、私はそうではなかったからだ。というか、流行のポップカルチャーなんかのことを考えている余裕はなかったのだ。当時は家庭環境がよくなく、両親が帰って来るのは夜の十一時過ぎだった。私は姉と二人暮らしみたいなものだった。両親は社会的地位はある人間であったので(社会的地位しかない人間であるとも言える)、貧乏ではなかった。だから、毎日帰ってから、宅配で運ばれてきた夕食を食べて、お風呂に入って、という時間を高校生の姉と共に過ごした。

優等生だった姉は、両親から過度な期待を寄せられていた。言ってしまえば勉強をさせられすぎていた。医者になれとか、教師になれとか、言われていた。期待に全てこたえられる能力を持った、死ぬほど優秀な姉であった。通知表はオール5以外の数値を見たことはなかった。ピアノも天才的に上手かった。本が好きで、文才も常人離れしていた。芸術的センスに恵まれ漫画も描けた。当時稀だったプログラミングだって出来た。危うげな美貌も兼ね備えていた。異性にも、同性にもモテていた。

そのように完璧に見える姉の心が歪んでいることを、敏感な私は小学生の時に既に感じ取っていた。姉はリカちゃん人形を解体して遊ぶようになっていた。幻想的で美しかった姉の絵は、だんだんと流血したものや、色の無いもの、猟奇的な表現に満ちていった。そして高校に入る前には、完全に心を病んでしまっていた。歪んだ気持ちを歪んだ絵に昇華し、それでも発散しきれない抑え込まれた自我を、自分の手首に向けるようになった。

姉は毎晩のようにカミソリで手首を切っていた。手首が傷で満たされて、切る箇所が無くなったら、今度は前腕を切った。前腕が傷跡で満たされても、彼女の歪んだ欲求は満足することはなく、上腕にまで向けられた。上腕にも切る場所が無くなったら、もう片方の腕の手首から、やり直しだ。より深く、より鋭い痛みを、自らに与えていった。高校三年生の頃には、彼女の両腕の上腕までびっしりと、✕印の一生消えない傷跡がついていた。それは彼女の中で存在を主張したがっている、押し殺された、もう一人の自分によって植え付けられたものであった。

…これを読んでいる方は、姉に同情するだろうか?それとも、それを見ていた私に同情するだろうか?両親に、同情するだろうか?さまざまな立場があると思う。いずれにしても、リストカットは、彼女なりの自己表現だったのである。

姉と自分は全く違う人間だ。姉と違って、私は”幸いにも”劣等生だった。つまりあまり期待を抱かれずに育ったということだ。私は成績が悪くても、おちゃらけてみせることができた。でも両親に過度に期待され、一切口答えできなかった彼女は、自分が傷ついていることを、そんなふうに最悪の形でアピールするほかなかったのだ。

「あんたの方が可愛いって言われ続けたから私は病気になった」

と、私は何度も責められた。人形のような美しい容貌をした姉に、そう、言われる。鏡で見比べてみても、どう考えたって姉の方が華奢で美人だ。得意のピアノと、一部の理系科目以外は、何一つ私は姉にかなう部分なんてなかった。でも彼女の自己認識は恐ろしく歪んでいた。人より少しでも劣ったところがあると、全て劣っているように思えてしまうようだった。

本来その苦しみを受け止める役割であるはずの両親は、姉から目をそらし、仕事に逃げていて帰ってこない。沢山お金を稼いで、休日にひたすら洋服やバッグを買い与えるという、表面的なことで姉の心を満たそうとするのみだった。

(そんなことで満たされるわけがないのに。)

そんなことを私が両親に言う権限は一切なかった。権限が無いはずが無いと思うかもしれないが、子供とは、そういうものはでないか。親と同等の立場で意見を言えば「それは屁理屈だ」と殴られるのを分かっていた。だからじっと耐え、姉の罵声と、リストカットを見せつけられる苦しみを、我慢するのみの日々であった。

中学生だった私は、姉のためにソーシャルワーカーを呼んだり、ゆっくり話を聞いたり、精神科に連れて行くという方法をまだ知らない。ただぼんやりと、罵声に耐え、血の流れる腕を見るだけの生活が続いた。

漠然とした絶望

ある日、私がピアノを弾いている最中に、姉は発狂した。譜面台に置かれた、エルガーの「愛の挨拶」の楽譜をびりびりに破かれた。まだ暗譜していなかったから、愛の挨拶は、それ以降二度と弾けなくなった。「なんで破ったの」と理由を聞くと「私より上手くならないでほしい」と子供のように泣きわめきながら訴えてきた。その姿を可哀想な人だと思うよりも、恐ろしさの方が勝っていた。その時の姉は、いつ包丁を持ち出してもおかしくない精神状態だったからだ。私はそれきりピアノは弾かなくなったし、弾いても、姉より下手に聞こえるように、わざと間違えるようにした。

何かを無心に頑張るという生活は、心の安定が約束された場所でしか叶えられない。優先順位を考えたら当たり前だろう。何か文化的な活動で評価を得るよりも、自分の感情を、生命を守ることのほうが先決だ。姉を刺激しないように、ふだんは、物音を立てることすらせず過ごした。常に気を張っている状態である。

その時の私は中学生ながらに「私は誰の優位に立ってもいけない」という、漠然とした絶望を抱きはじめていた。

学校

当時は部活で軟式テニスをしていた。当時から、身体を動かすことは好きだった。動いていると、頭は空っぽになり、嫌なことをすべて忘れられる。姉のいる家にはなるべく帰りたくなかったから、部活が終わってからも一人でずっとサーブの練習をしていた。もともと運動スキルが高い方ではなかったが、練習量に従ってスキルはついてくるものであり、気づけば同学年の中では唯一県大会に行けるレベルに達することが出来た。

部活があるから、学校はまだ安心だと思っていた。けれど、だんだん部活の同級生に、無視されるようになってきた。当時部活にいた同級生は、私、Aちゃん、Bちゃんの三人であった。

それも中学二年の時である。Aちゃんが私を無視し始めた。そのうちBちゃんを仲間に引き入れ、タッグを組んで私を徹底的に無視するようになってきた。ボールを拾っても、ありがとうも言わない。ボールをくれと言ったら、無言で投げつけられる。後輩の仕事である、部活が終わってからのグラウンドの整備や、ボールの点検は、AちゃんとBちゃんだけがキャッキャとおしゃべりしながら行う。私はそこに混ざる術を持たず、手持無沙汰にうろうろするだけだった。あくまで主犯はAちゃんで、Bちゃんはそれに逆らえずに追従する形であった。

テニスのラリーの練習は同じ学年内で回すことになっていた。当然AちゃんとBちゃんがペアを組む。取り残された私は、ラリーの時間になると、仕方なしに一人で壁打ちをしていた。そんなことをしていると「さっさと組みなさい」と先生や先輩に怒られた。しぶしぶながら二人に混ぜてもらって練習をした。Aちゃんがトチると、彼女はぶすっとして嫌な雰囲気になる。そうなるのが嫌だったから、Aちゃんとラリーをするときはキリのいい所で必ず私がトチってミスをするようにした。わざとミスを続ける私を見つめるBちゃんは、何とも言えない表情をしていた。思い返せば、Bちゃんは常に私に話しかけたそうにしていた。同情するように、罪悪感のこもった目で私を見ていた。けれどAちゃんの支配からは逃れられない。彼女は彼女で辛かったであろう。当時の私にとっては敵でしかなかったが。

AちゃんとBちゃんがラリーをするときは、キャッキャと楽しそうな笑い声が響いている。私と相手をするときは、当然ながら一言も会話はない。中学一年の後半から、中学二年の後半に至るまでの一年間、そんな感じで部活をしていた。

妬み嫉みに対する対処

しかしAちゃんが私を無視するようになったのは、スポーツで私が結果を出してきたからではない。根本は学校の勉強だった。小さな中学校で、Aちゃんは頭が良くて、私も勉強はできる方だったから、だいたい私とAちゃんでいつも学年の一番と二番を争うような形になっていた。

中学に入りたてのころは、同じ部活と言うこともあって、Aちゃんとすごく仲が良かった。

「なおちゃんすごーい!」「Aちゃんやっぱり天才だよ」

と、茶化し合う関係だった。しかし一年生の後半になるにつれてその関係は崩れていった。私がAちゃんより良い成績を取ると、Aちゃんは私を無視するようになった。次第に、部活でも、Aちゃんより上に立ってはいけない、成績でも上に立ってはいけない、ということになった。

その時に私がとった対処法は簡単だった。わざと低い点を取ることにしたのだ。Aちゃんはかなり努力家で頭が良かった。五段階評価のてっぺんから外れず、内申点に響かない位のギリギリのラインを狙って間違えた回答をすれば、私は目標の成績を保つことができ、Aちゃんは確実に一位になれる。その私の対処は、時間をかけてゆっくりと実を結び始めた。

Aちゃんが定期テストで一位になることが一年近く続いたある日、急にAちゃんは私を無視することをやめてくれた。本当に突然、仲良く話しかけてくれるようになった。Bちゃんもほっとしたように、私に話しかけてくれるようになった。そして、仲良しの楽しい、部活生活が帰ってきた。それが中学二年の冬の話である。

その時、”ああ、これが正解なんだな”と私は思った。

家庭でも、学校でも、自分を殺し、物音をたてない。ただ、その場をやり過ごして平和を保つ。世間知らずの中学生だった私が、自分の心を守るためには、それが唯一の手段で、唯一の正解だったのだ。

糸が切れる

けれど、正しいと思う行動を続けていても、私の心には歪みが生まれ始めていた。ある日、全てがどうでもよくなってしまったのである。よく”ぷつりと糸が切れる”と言うだろう。全くその状態になった。部活も、勉強も、どうせ全力で打ち込むことなんてできない。ずっと誰かの機嫌取りをして生きていくしかない。全てがどうでもよくなったのだ。

中学三年生になる直前の春休み、私はひとりで自主練をしていた。昼から夕方までサーブ練習をした後に、家に帰った。家に帰ると姉が発狂していた。

「どうして私の誕生日が近いのに誰も祝ってくれないの?」

姉はその時は既に精神科に通っていた。その日は、そこで処方された薬を大量に飲んでいた。暴れまわり、歯止めが利かない状態だった。もはや夕食どころではない。命の危機を感じた私は、泣き叫ぶ姉を放置して、懐中電灯と水だけを持って、外に飛び出した。田舎の真っ暗闇を照らす街頭の明かりがやたらと薄暗く感じた。歩きながら私は”ぷつりと糸が切れる”のを感じた。

とはいっても涙が零れるわけではなかった。泣いて事態が良くなることなんてなかったから、泣き方すらもう分からなくなっていたのがほんとうだ。でも、不思議なことに、アドレナリンはドバドバと出ていた。家を飛び出したことで、全て道が開けて、解決策が見つかったような気持ちでいた。

私の足は、幼い頃よくスキーをして遊んだ近所の山に向かった。山の中は街頭もなく真っ暗だったが、月の明かりがおだやかに登山道を照らしてくれていた。ケーン、ケーン、というキジの特徴的な鳴き声が、定期的に響いていたのを、よく覚えている。地面を懐中電灯で照らしながら歩くと、猪の足跡みたいなものも見えた。それほど登山者の多くない山だった。野犬もいるかもしれなかった。でも恐怖心は全くなかった。猪に出会おうが、野犬に嚙まれようが、もうどうでもよくなっていた。てっぺんまで登ったら崖があるのを知っていた。”その崖から飛び降りて死ぬ”と決めていたからだ。でも、もはや途中で死のうが、てっぺんで死のうが、どうでもいい。”もう楽になろう”と決めたのだ。

その境地に達した私は、不思議ととても清々しい気分でいた。

姉が発狂していることや、Aちゃんに無視されたり、仲良くされたりすることを、大人に相談したこともあった。先生からは「そういうことは時が経てば解決するから、今を平和に乗り切りなさい」と言われた。素直に従って、部活でも勉強でも平穏を保った。親からは「人は一人で生きていくしかないの。だから一人で頑張りなさい」と言われた。だから発狂した姉の事は外にばらさず、自分の心の中だけに秘めた。両親も先生も悪くないと思っていた。ただ、この世は地獄であるだけなのだ。そのことを私はとうに――小学生の姉がリカちゃん人形を解体して傷つけて遊び始めたあの頃から――悟っていた。私は生きていても誰かの機嫌をとりながら過ごすことしかできないということも。

でも、自分の中に残ったちっぽけなプライドが、無意識に”自分の存在を主張しろ”と叫んでいた。

存在を主張するには、いなくなることが最も効果的であると、衝動的に思った。机の上に乗った花瓶が、空白の卒業アルバムが、棺に入った自分のぐちゃぐちゃの遺体が、自分の生をより一層引き立たせることだろう。自分を主張したい気持ちと、自分を殺さなければならない現状のはざまで悩むのは、もう、疲れたのだ。

自殺未遂

山の中は人気もなく穏やかだった。そこには毎日のように、当たり前に生と死が入り乱れている。その中で人が一人死んだところで、生きていてもしょうもない命がひとつ消えたところで、自然は優しく受け入れてくれる気がした。山の標高は五百メートル近くだった。半分ほど登ったところで、すでに私の足は疲れ果てていた。ちょうど、かつて牛や馬を飼っていたゆるやかな傾斜となっている牧草地が見えた。私はそこの草むらに寝転んで満月を眺めた。その時はほぼ着の身着のまま、カーディガンみたいな服装だった。春とはいえ田舎で気温はかなり低かったから、このまま眠れば死ねると思った。てっぺんまで行かなくてもいい、このまま眠って死ねたらその方が楽だろう。そう思いながら私の目は閉じていった。

気がついたら知らないおじさんに揺り起こされて、無理やり車に乗せられていた。車には知らないおばさんも乗っていた。「だいじぶか、だいじぶか」と訛りのきついおじさんは何度も私に声をかけてくれて、おばさんは何枚も私に上着をかけてくれた。その上着がずっしりと重くて、おばさんが心配そうに私を見つめてくれて、その時久しぶりに私の目から涙がこぼれた。泣いてしまった勢いで「家に帰りたくない」と素直に伝えたら、「うちに泊まってけ」とおばさんはぽんぽんと頭を叩きながら笑顔で言ってくれた。彼らは山の近所に住む、かつて牧草地を管理していた人たちだった。

おじさんとおばさんの家で私は出されたココアを飲んだところまでは覚えているが、その後何をしゃべったかは覚えていない。なんであそこで寝てたのか、理由すら聞かれなかったし、ひたすら笑顔でどうでもいいことを話しかけ続けてくれた。「もう牛も馬もいないから荒れ果てちまって、年金暮らしで…」「もうそろそろ田んぼさ水を入れる準備を…」方言になれている私にも聞き取れない位の訛りの強い優しい声が、途方もない安心感を与えてくれた。私が家の電話番号と住所を書いたメモを渡すと、両親に居場所を伝える電話をかけてくれていたみたいだった。

思えば、その自殺未遂が、生まれて初めて私の両親への反抗だった。

後日談

その先に両親とどうなったかは、あまり思い出したくもないので今のところは割愛する。とりあえず、私のささやかな反抗と自殺未遂は、現在に至るまでなかったこととして扱われているのが現実だ。「中学生は多感な時期だからそういうことがあっても仕方ない」。世間の扱いはそんなもんである。

姉は次の春に大学に行き、実家を離れた。リストカットは徐々にしなくなっていったようだが、深く深く心に刻まれた病がそう簡単に治るものではない。現在は絵の才能を活かして精一杯社会貢献しつつも、たびたび過剰服薬をしているし、生きづらさを抱えながらの生活だ。ただ今は結婚して、旦那さんが姉のすべてを抱えてくれている。家族としてとても有り難く思っている。

まだ後日談はある。私を無視していたAちゃんの話である。Aちゃんとは結局同じ高校に進むことになったが、高校に入ってすぐ、私は完全にAちゃんと交流を絶つようにした。高校時代は、中学とはうってかわって、好きな友達と、好きな部活をして、好きなことだけして過ごすようにしていた。勉強も好きな教科しか打ち込まなかった。嫌いな教科は寝ていた。家に帰ってももう血まみれの姉はいない。両親は相変わらず帰りが遅い。だから、私は、自由にやろうと決めたのだ。

しかしある日、しばらく交流を経っていたAちゃんが、高校を休みがちになっているということを人づてに聞いた。私はそれを聞いて、近所のおばさんに、Aちゃんはどうしているのか聞いてみた。私はAちゃんの家に一度も入ったことはなかったが、かなり厳格な家庭だったらしい。親が薬剤師とか、そういうことは聞いていたが、うわさ話によるとかなりひどい教育虐待を受けていたという話だ。

「ああ、そういうことだったのか」と思った。私が無視され続け、暗黒の中学時代を送る羽目になった理由、それも結局、大人のせいだったのではないか。もう邪悪に育っていた私は、とりたててAちゃんが可哀想と思うことも無かった。どうせ謝ってくることはないと知っている。でも、理解はできた。なにもかも許せると思った。”大人なんてそんなもんだよな”というのが、冷めきった目で世を見つめていた当時の私の、正直なところの感想であった。

世の中は不条理である

この気持ち悪い自分語りを、ここまで読んでくれた人たちに心から感謝したい。どんな感想を持たれただろうか。誰に同情しただろうか。私?姉?Aちゃん?Bちゃん?それとも、両親や先生?おじさんやおばさん?

それぞれに事情があることを、大人になるにつれて、私は理解していっている。

申し訳ないけれど、私は、人に根拠のない希望を与えるのが苦手だ。「なんとかなる」なんて適当に言うのは無責任だと思うからだ。私は運が良かったから、今、薬を上手に使いながら”そこそこのメンヘラ”として、社会の歯車になれている。でもそうなれたのは、運が良かっただけなのである。「かならずよくなる」なんてことは口が裂けても言えない。世の中というのは不条理に出来ている。弱者は虐げられ、強者が傍若無人にのさばりかえるようにできている。天国を見たいというのなら、ヤク中にでもなるしかない。

今に至るまで私は生き延びてきた。けれど、地獄を出たという感覚はない。前提としてこの世は地獄で、私はその地獄の中での立ち回り方と、その中でも少しだけ光るひとときに、幸運にも、生きがいをみつけられただけなのだ。

今は、自分の、姉の、Aちゃんの苦しんだ経験を無駄にしないように、親として精一杯やる。完璧ではないものの、求められているだけの愛情を、子どもに、家族に注ぐ。たくさんの面白い人たちのユーモアに助けられながら。虐待の連鎖を打ち切る。与えられなかったものを、生み出し、与える。それが私がこの地獄の世を生き抜く唯一の光になっているのだ。

死を選ぼうとしているあなたへ

最後に、死を選ぼうか迷っている方に伝えたいことがある。私は育児も仕事もしているので、時間を多くは割けないし、あなたの痛みに完全に寄り添うことはできない。でも少しばかり、話を聞くことはできる。だから死を選ぶその一歩手前に、その勇気をもってこの記事のコメント欄にコメントして欲しい。「死にたい」の一言でもいい。コメントをする勇気が無いのなら、私のツイッターや質問箱にDMを送って欲しい。

(どうでもいいことを呟いていてすみません、ツイッターのリンクの貼り方がよくわかりません。)

私は大した専門家でもないですので、きっと何もできませんが、”痛みを分かち合う”ことだけはできます。一方的に話を聞いたり、どうでもいい、くだらない話くらいはできると思います。

多くの人は、ぷつりと糸が切れたら、そこで人生が終わっているのでしょう。私はたまたま生き延びただけ。その”たまたま”になれたらいいなと思っています。痛みを分かち合うことは、同じことをして私を生き延びさせてくれたおじさん、おばさんに対する恩返しでもあります。

普通の人ならドン引きしまうめちゃくちゃな文章とか絵とか、リスカ跡とかも、私ならば見慣れています。アドバイスをすることはできませんが、いのちの電話よりは繋がりやすいと思います。この記事を読んで誰に共感したとか、そういう話ももちろん聞きたいです。さらにこういう視点もあるよね、とか、何か思うことがあれば、是非メッセージをください。

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(みんな地獄を生き延びているだけで百点。それなのに百万点を求める意識の高い世の中が、年に三万人の自殺者を生み出しているだけ。)


長々と書いてしまい失礼しました。この文章が、この殺伐とした世の中で、誰かの苦しみに一時でも寄り添うものになることを祈って。


2021年9月2日 nao 拝

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