狩りをして生活をする家族🇳🇿
今回ずっと行きたいと思っていた狩りに連れて行ってもらいました。
連れて行ってくれた家族は、野生のお肉だけではなく、野菜、はちみつ、生活のほとんどを自分たちで供給している「自給自足の家族」
ものすごく興味深い生活を見せてもらいました。
狩りで生きる家族
West coastで出会ったこの夫婦は、9時ー5時の仕事でお金を得るのではなく、自分で狩りに行き山からお肉を得る。庭のガーデンで野菜を育て、蜂のコロニーに蜂蜜のお裾分けをもらい家族四人を養っている。
彼らはそのプロセスを誰よりも、何よりもリアルに知っている。
山で生きる動物も、庭で育てる植物も、全て天候次第だ。地球には争うことができない、と生活を通し体感している。
二人の子供を持つダーンは、昼間は野菜の収穫、友達のお家づくり、狩り、人助け、なんでもこなす。
そして夜には、友人を招き、自分で作った一杯のワインと美味しいご飯で談笑する。
「Life is goooood!(人生サイコーーーー!)」が口癖の彼はみんなのムードメーカーだった。
そんな彼と狩りに出かけると、本当に同じ人なのかわからなくなるぐらい人格が変わる。
笑みを一切見せず、必要のない言葉は言わない。彼のムードに合わせ周りの空気も張り詰める。
狩りは舗装されたきれいな山道ではなく、山奥の、動物が生活する道なき道を突き進む。
私が腰まである川の冷たさに叫びそうになっている時も、そこらじゅうにあるブラックベリーのトゲトゲに苦戦している時も、彼は音を立てず、何もないかのように静かに気配を消し進む。
すべての匂い、聞こえてくる音、頭に入った迷路のような道に感覚を研ぎ澄ませ、山やぎを探す。
狩りには何回か行ったことがあるが、動物を見つけてから撃つまでの速さは最低でも1分はかかっていた。
ただ今回の地域では草木が生い茂っているため、短距離戦で狩りが行われる。
動物に気づかれてしまったら逃げられるため、相手に気づかれる前にどれだけ早く殺すかが鍵となる。
必死になって進んでいると前を歩いていたダーンの息子が耳を塞ぐ。あっ!来る。と思う前に、すぐに銃声が響き、山やぎの叫び声が聞こえた。
まだヤギは草を食べている途中だった。ダーンが来たことにも、撃たれたことにも気がついていない。距離はわずか10m。
私は呆気に取られ、感動と、尊敬と、何が起こったかわからない混乱に夢を見ているかのような気分だった。
大きな雄の山やぎは、ほぼ即死で目が開いたまま、草を食べたまま、だった。
「美しい」
子牛を殺したときも、牛が死んだ時も、出た言葉は「ごめんね。」で、そんな感情にはならなかった。
同じ食べるために命を殺める行為なのに、私はダーンがどれだけ、この恵みに感謝し、今打ち殺した命を尊敬しているか知っていたから。
それは取ったお肉を一つも無駄にすることなく美味しい料理を作る母のケイスも、それを見て育った子供たちも、みんなが知っていた。
「狩りをすることも、釣りをすることも、大地から野菜を得ることも、蜂の手を借りて、見覚えのある花から集め作った蜂蜜も、近所の人の大事なものを手伝うことも、全てはつながりなんだ。大地と、自然と、地球と、そしてこのコミュニティーと。」とダーンは言った。
「そしてそのつながりは、そのプロセスから得られる。」
🇳🇿の牧場で働いた4年間
私は動物が大好きだ。そして牛も子牛も犬や猫と変わらないぐらい可愛いと思っている。
でも食べるために殺す基準として「可愛いか可愛くないか」「痛みを感じるか感じないか」は関係ないと思っている。
私はそれがたとえ野菜だとしても、魚でも、動物でも、関係なくそのプロセスを知り、理解し、感謝することが何よりも大事だと思っている。
もし野菜を食べるなら、野菜を。お肉を食べるなら、動物を。魚を食べるのなら魚を。私たち人間は他の生命を取り込むことにより、自らの命を続けることができる。
今の社会はそれらのプロセスを誰かが代わりにやってくれる。スーパーに行けば、一つの商品としてきれいに梱包されている。
見る必要がなく、知る必要がない。私はそのケアレスさが今の食品社会を作っていると、プロセスをする側に立ったことで考えさせられた。
何度も書いているとは思うけれど、出産シーズンは一日14時間、朝3時から雨の中でも泥の中でも、必死に小さな命を助けるために走り回った。
いずれその子がお肉になり殺されるとしても、私にはそのこを立派に幸せに育てることで、食べ物への感謝に、そしてその命の尊敬につながると思っていたから。
それでもこの社会は簡単に、その命を捨てる。無駄にする。
子供の時は親や、先生から「食べ物を大事にしなさい。いただきます。の意味は感謝だから」と教わるが、大人たちは今もなお年間6万トンの食べ物を廃棄し続ける。
牧場では「いらない」と言われた命が今日も無駄に殺される。
働き始める前から「きっとたくさんの命と向き合わなければいけないだろう」と覚悟はしていた。
それこそが牧場で働く理由の一つだった。だけれども五年間の牧場で私が一番向き合わなければいけなく、苦しんだことは「命の大切さ」や「食べ物に感謝する」ことではなく、人間が作り上げたこの残酷なシステムだった。
殺して食べる。とは
自分と同じぐらい大きな動物を殺すときには、まるで自分を殺しているかのような感覚に襲われる。
「こんなに美しい生き物を殺してでも生きるに、私は値しているだろうか。」そんなことを毎回考えさせられる。
その感情は、お肉を解体するときも、料理するときも、食べる時も、湧き上がってくる。
重く、そしてときに辛い。だがなぜか清々しい。そのプロセスを乗り越えるからこそ、心からの感謝と尊敬が芽生える。
山の草や木の実を食べ、大地から生命を続けてきた山やぎが、今度は私につながる。地球、山、やぎ、すべてのつながりを受け、私はもはや一人の命ではない。全てを殺してきた罪悪感と、そしてそれを繋げている暖かさが妙に私を強くする。
それがつながりがもたらす産物だと思う。
人間は食べ物がないと生きていけない。どれだけ幸せだろうが、お金を持っていようが、体に食べ物を取り入れないと死んでしまう。
食べ物は私たちの体の一部となり、それは魂になる。
いわば、食べ物を尊敬し、感謝することは、自分もの魂を尊敬することにつながる。
食品廃棄を減らすこと。生産者を選び、どうやって自分が食べているものが育ったか確認すること。ファーマーの中でも尊敬と感謝を持ち仕事をする人もたくさん見てきた。
狩りや自給自足が自分でできないとも、ファーマーが感じた繋がりを、感謝し繋げることが、私たちに今できること。そんなシンプルなことなんじゃないかと私は思う。
R.I.P beautiful bobby calves
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