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"教育活動の要は授業だ"という幻想

さて、正規教諭として全日制普通科の高等学校で働き始めて1年目。

担任もなく、校務分掌の仕事内容は私一人で完結するものだったため、やり方を大幅に変えて、"効率化"を意識した仕事をしていました。

仕事の効率化というのは時に、一緒に働く人のモチベーションが低いと困難になる時があります。
「そういうやり方はよくわからない」とか、
「そのやり方を導入するために逆に時間がかかる」とか。
もちろんトライしてみる価値のない提案もあるのですが。

とりあえずやってみよう。ダメだったら元に戻せば良いじゃない。

そういった気持ちを持たない人と仕事をすることは時に困難を極めます。

特に保守的な人間の集まりの中では、
「リスクを取ってでも新しいことに挑戦する」
ということは"そこまで価値のないもの"とみなされがちになります。

前述した通り、私は幸い1人完結型の校務分掌を担当していたため、仕事のやり方は全て私に委ねられていました。
引継ぎで仕事内容を聞いた時から、
「これは効率が悪い」
と感じていた仕事内容。

それを自分の思う"効率化"に向けて見直し、自分で業務を走らせてみよう。と思ったのでした。

よって、校務分掌の負担は減りました。
私が校務分掌業務の"徹底的な効率化"を目指した理由はたった1つ。

それは、"授業づくり"に割ける時間をとことん増やしたいと思っていたからでした。

フルタイムで働いている教諭であれば、担当する生徒の数は100名を超えます。例えば私の場合だと、担当している生徒の数はいつも平均して200名以上はいました。

200名以上の生徒が全員"満足だ"と言う授業づくり...これがいつも私の目標でした。全員は無理でしょうか?いや、無理と言ってしまえば無理になってしまう。
理想が高すぎるでしょうか?でも、理想がなければ前に進む力も生まれない。

...ということで、私はほぼ毎日、授業づくりのために残業していました。
力のない、能力のない私が自分の満足する授業を作るためには、就業時間内で仕事は終わりません。これは自分のための残業でした。

「この時間で積み上げたものが、きっとこの先活きてくる」

そう信じて、生徒を観察し、考えた授業を試し、見直し、改良し...
それを繰り返して現代の生徒のニーズに合った授業の在り方を日々模索していたのでした。教師である私が授業に対する探究心を忘れてはいけない。いつもそう思っていました。

しかし、残念ながら周囲を見渡しても同じ感覚を共有できる教員はなかなか見つかりませんでした。
もちろん、新任の私は業務も少なく、授業に割ける時間がたくさんあります。周囲の教諭たちは、私がまだ経験したことのない業務をたくさん抱え、その仕事をこなすことに忙しいのです。

職員室を見渡して気づいたこと、
それは"教育活動の要は授業だ"というのは多くの教師にとって幻想だ。

ということでした。
授業が要だと意識して仕事をしている人が少なすぎるのではないか...
それに気付いてしまった時、私の中で早くも何かが崩れ落ちました。

生徒の人間性を豊かにすること、
それに伴って学力を上げること、
50分の授業が安心できる時間/空間になること、

授業が変われば、生徒が変わる。
生徒が変われば、学校が変わる。
学校(教育)が変われば、社会が変わる。
社会が変われば、国が変わる。

あらゆる連鎖を意識して授業を考える自分のスタンスは、もはや幻想なのではないか。
そんな日々を悶々と考えながら、授業を作る日々が続くのでした。









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