Flying Solo (横浜編)
前回書いた通り、Clubhouseで知り合った人たちに会うというのが今回の旅の目的のひとつだったのだが、「会いに行く」というところにも実は重点を置いていた。
なぜかと聞かれてもよくわからないのだけれど、能動的に会いに行くということが私にとっては重要だったのだ。
こちらが会いたいと言ってるのだから、こちらから訪ねるのが筋だと思ってる、という気もするけど、そんなしおらしい理由でもない気もする。
結局は自由に好きなところに行けるから、というのが本当のところなのかも知れない。好きに行ける自由を味わいたいだけなのかも。
ともかく、今回はあちこちと人を訪ね回ったわけだが、次に行ったのは横浜だった。
横浜。
短大は横浜市にあったし、免許証を取りたての二十代の頃には、しょっちゅう夜中に友達と環八から第三京浜に乗って、みなとみらいまでドライブに行っていた。
仕事でも行ったし、アリーナでのコンサートにも何度も行ったし、小学校からの友達の結婚式も横浜のホテルだったな。だけど、最後に行ったのがいつかもう思い出せない。
久しぶりに横浜に行けることにわくわくしていたけれど、どうしたって渋谷の魔物をかすめて行かなければならない。
東横線の乗り場にたどり着く自信がないので、JRで行くことにした。そしたらなんとまさかの遅延。
え、日本の電車って、時間に正確なことで有名ですよね?横浜にも泣きそうになって到着した。
遅れてすみません!と待ち合わせのレストランに駆け込むと、みんなわーっと席から立ち上がってハグしてくれた。
何度も言うようだが初めましての人たちである。なのにひとつも違和感がない。この親近感、この安心感、この既視感は一体何なんだろう。
ランチを待つ間、人生すごろくをしようということになった。サイコロを振って、進んだマスに書かれた質問に答えていくゲームだ。
住んでた場所とか、本とか、映画とか。
声だけでなんとなく作り上げていた彼女たちのイメージに、目の前の姿と、すごろくの答えと、間に挟む会話が、何層もの深みを与えていく。
美味しい料理に楽しいおしゃべり。同じ時間を同じ場所で共有できる喜びが、そこに色を足していく。
美しい音楽のように心地よい彼女たちの声を聞きながら、ふと窓の外に目をやると、丹沢の山々が見えていた。
海があって山も見えて、なんだかバンクーバーみたいだ。
名残惜しいランチのあとは、その中のひとりが私に付き合って一緒にプラネタリウムに行ってくれることになっていた。
私は小さい頃からプラネタリウムが大好きだった。夏休みには祖父母の家の屋根の上で星を見るのが楽しみだった。
けれど彼女と一緒に星空を見上げたかったのには別の理由がある。
一年半前、Clubhouseで知り合った友人が、若くして病気のご主人を看取るという想像を絶する経験をした。
本人の痛みや悲しみとは比べものにならないことは重々承知だけれど、おそらくあのときその人の周りにいた誰もがそれに共鳴し、それぞれの重みを持って受け止めていた。
そして多くが私のように、自分に一体何ができるのかを必死で探り、時に何もできない自分の非力さに打ちのめされたりしていたのではないだろうか。
私がなす術もなくただ胸を痛めているだけの間、彼女は眠れないその友人が少しでもゆっくり眠りにつけるよう、毎晩本の朗読をし続けた。
彼女は星に関する本を多く読んだ。
子供の頃、人は亡くなったらお星さまになるんだよ、という話を聞いたことのある私は、おとぎ話と分かっていても、時に星を見て亡くした人たちを想う。
彼女の澄んだ優しい声に、その友人だけでなく、私も含めていったいどれだけの人が慰められただろう。
その彼女とただ一緒に同じ星空を見上げる。それはあの時味わったそれぞれの痛みと悲しみを、静かに分かち合うことでもあった。
いろんな思いが重なって、亡くした人たちのことを想う。朗読を聴いていた日々に感じていた痛みが、すうっと満天の星空に昇っていった。
(続く)