「未亡人になったらパリスに住むんだ」。 父がまだ健在だった頃から母は言い続けていた。そのたびに父ちゃんまだ元気なんだからそんなこと大声で言いなさんなと娘たちは白目になっていた。 パリがニューヨークになることもあったけど、住むのはともかくとして、とにかくずっとパリにはひとりで行きたいと言っていた。そう、ひとりで。 父が亡くなって、長年先延ばしにしていた人工関節の手術も受け、積極的にリハビリを受け、今年4月、ついに秋にパリ行きを決めたと母から連絡が来た。 ひとりで行くと。
寒い。日本に帰ってからも、日本にいる間も、バンクーバーに戻ってきてからも、とにかくずっと寒い。 セントラルヒーティングのない、古民家のような実家の廊下は氷のように冷たい。でもそれだけではない。気温が二十度を超えてもなんだか体が冷えていた。 もともと体温は低いけれど、薄着でいても手足は常にぽかぽかしているのが自慢だったのに、今日も足先が冷えて寝付けない。 今回帰国した二週間を私は家族と、親しい友達と、日本は4年ぶりのオットと共に過ごすと決めていた。 心を一度にたった一つ
クリスマスの朝。雨が上がったほんの少しの間、外の空気を吸いにひとり散歩に出かけた。 所々煙突から煙が出ている。窓からツリーが見える家もある。昨晩食べ過ぎたのか、プレゼントを開けたあと二度寝しているのか、お昼近いのに外には誰もいない。 冷たい空気を吸いながら歩くと、頭が少しすっきりしてくる。けれど書きたいことがたくさんあるような気がするのに、ちっともまとまらない。 心を動かす何かがあると、私は写真を撮るように記憶して、それをなぞって言葉にする。 けれどこの年末はその写真
忘れられない光景がある。 母方の祖父母と真珠湾の戦艦ミズーリを訪ねた時、二人が長い間手を合わせ、目を閉じて静かに誦経していた姿だ。 祖父はへっぽこ近衛兵で、戦時中集合がかかるたびに祖母が行かないでとすがりつく。それを何とか振り切ってもしょっちゅう自転車のチェーンが外れ、遅刻し上官に怒られる。乗っていた馬が暴走して上官の前を走り抜け、貴様敬礼せい!と怒鳴られる。そんなズッコケ話しか聞いていなかった。 でもそれだけのはずはないのだ。語られていない数々の思いを小さくなった祖父
バンクーバーに戻る日がやって来た。あちこち好きなように出かけ、好きな人に会って、やりたいことをやって満足してるはずなのに、強欲な私にはまだまだ足りない。 家族や地元の友達にはあまり時間を割けなかったし、親族に至ってはほとんど会っていない。2週間半という限られた時間の中では、当然不義理をするところが出てくる。 成田エクスプレスで空港に向かうことにしていたので、実家からタクシーで新宿に行きそこから乗車することにした。 スーツケースとボストンバッグはオットへのお土産の食べ物と
東京でもうひとりどうしても会いたい人がいた。 もっと早く、渋谷での集まりの時にでも会いたかったのだが、海外出張中で来られなかったので、彼女の職場がある六本木でランチの時間を取ってもらった。バンクーバーに戻る前日のことだ。 久しぶりの六本木。ガラスの十代の頃よく遊びに来た街。街の様子を見ながら行きたかったので、地下鉄ではなく、渋谷からバスで向かった。 何年ぶりだろう。父が広尾の病院に入院していた頃、西麻布はよくかすめたけど、六本木までは来なかったもんな。 え、アマンドが
最終日は大阪でランチしてから東京に帰ることにしていた。会うのは女性4人。年齢も経歴もバラバラ。共通するのは、全員同じClubhouseの英語の部屋で知り合ったということだけだ。 京都での大学時代、友達と飲みに行くのはだいたい大阪だった。みんなあちこちから通っていたから、大阪が一番便利だったのだ。 だから名古屋、広島、博多と比べると圧倒的にホーム感が強い。何ならエセ関西弁もいけまっせーと腕まくりしながら新大阪に降り立った途端愕然とした。 あかーん!私がよく行ってたのはミナ
二泊目の夜は広島港の方に宿を取った。そろそろ海が恋しくなってきたのだ。海の見える窓際に座って静かに心を落ち着ける。今日一日見たこと、聞いたこと、話したことに情緒が追いつかない。頭の中が忙しい。 大浴場があるホテルで、QRコードを読み込むと、混雑状況が分かる。便利な世の中だ。空いている時を狙って行ったら、しばらく露天風呂を独り占めできた。 翌日はまた新幹線に乗り込み、次は博多へ向かう。博多で待ってくれているのももちろんClubhouseのお友達。 日本からイギリス、ドイツ
広島に着いたのは夜8時過ぎで、駅からは路面電車でホテルへ向かった。 チェックイン時にもらったコインが使えると言う最上階にあるラウンジに行ってみる。飲めない私は、瀬戸内の柑橘類を使ったスカッシュを頼んだらこれが超絶美味しい。 テラスに出て、夜風にあたって、夜景を眺めて、初めてひとり旅の実感が湧いてきた。風がまだ冷たいねと言う相手がいないちょっとの寂しさと、たくさんの自由。 翌日はお昼にClubhouseの友達と会う約束をしていたので、それまでは平和記念資料館へ。 20代
母の実家はお寺で、群馬県前橋市にある。 子供の頃は忙しいお彼岸やお盆などの時には必ず行って、お線香や供花を売る手伝いをしていたし、大人になってからも、毎年年末年始には除夜の鐘をつきに集まる人たちの対応をしていた。 私たちの結婚式もここで叔父と従弟に挙げてもらった。色んなことが普通にできない家族なので、てんやわんやの大騒ぎだったけれど、境内の桜が風に舞って、まるで亡くなった祖父母も叔父も、紙吹雪でお祝いしてくれているような日だった。 今は叔父と叔母しかいなくなってずいぶん
柏に行くのは初めてだった。 携帯でちょっと調べれば、簡単に行き方も所要時間も料金さえ一瞬でわかる。便利な世の中である。 新宿で山手線に乗る。混んではいるけど整然としている。この素晴らしさは、日本を出て初めてわかることだ。 日暮里のホームで常磐線を待っていると、隣にいたおじさんがいきなりものすごい勢いで屈伸を始めた。 面食らって思わず妹にLINEする。 「日暮里あたりにはいろんな人がいるのだ。」 えええ?屈伸ともスクワットとも言えない謎の動きをしてるんだが。そして掛
前回書いた通り、Clubhouseで知り合った人たちに会うというのが今回の旅の目的のひとつだったのだが、「会いに行く」というところにも実は重点を置いていた。 なぜかと聞かれてもよくわからないのだけれど、能動的に会いに行くということが私にとっては重要だったのだ。 こちらが会いたいと言ってるのだから、こちらから訪ねるのが筋だと思ってる、という気もするけど、そんなしおらしい理由でもない気もする。 結局は自由に好きなところに行けるから、というのが本当のところなのかも知れない。好
(前編の続き) その後も帰国している間、何度か渋谷に行くことがあったが、何度行っても新しい渋谷に慣れることはなかった。 それにしても渋谷という街には大きな本屋がない。いや、あるんだろうけど、以前あったところはことごとくなくなっている。 あてもなく本屋を覗いて、今はどんな本が売れてるんだろうとぶらぶら見て回るのが、私はこの上なく好きなのだが、これはオットと一緒の時にはできない。 もちろん文句も言わずに付き合ってくれるだろう。だけど日本語がわからないオットにとって、それは
ClubhouseというSNSで知り合った人たちに会う、というのが今回の旅の目的のひとつだった。 地元の友達に何それ?出会い系?と聞かれ、まあ近からずも遠からずかと笑ったが、いざ説明するとなると難しい。 世界中の人たちが話し合える場。音声でのSNS。テーマがあったりなかったり、話し合う内容はそれぞれだし、ただ聞いているだけでもいい。 大概いつも行く場所 = 部屋は決まってくる。テーマに興味があったり、繋がった人がそこにいたりするからだ。やがてそこにだいたい同じ人たちが集
仕事を辞め二週間半ほど日本に帰った。オットがどうしても仕事を休めず、今回は私ひとりでの帰国。久しぶりのひとり旅だ。 誰かと思い出を共有する旅も、もちろんいい。 オットにとっては何度行っても何もかもが目新しく新鮮な日本。もし私があてもなくあちこちをぶらぶらしたとしても、文句も言わずに付き合ってくれるだろう。そしてその間にも、おそらく何か彼の好奇心をくすぐるものを見つけるに違いない。 そんなオットと帰国するのは楽しい。思いがけない発見もたくさんあったりする。 それでも私は
夜明け前だった。雨も降っていた。そして私はとても疲れていた。 毎日嫌な夢を見て1時間おきぐらいに目が覚める。眠った気になれない。 週末には必ずと言っていいほど体の具合が悪くなる。頭痛がずっと続いていた。 10分でも15分でも早く職場に行かないと、仕事が終わらない、という強迫観念に囚われて追い詰められていた。だから高い駐車場代を払ってでも車で出勤することが多くなっていた。 その日も車で職場に向かった。何でそうなったのか、まったく覚えていない。けど、気づいたら私は一方通行