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深淵を覗く

寒い。日本に帰ってからも、日本にいる間も、バンクーバーに戻ってきてからも、とにかくずっと寒い。

セントラルヒーティングのない、古民家のような実家の廊下は氷のように冷たい。でもそれだけではない。気温が二十度を超えてもなんだか体が冷えていた。

もともと体温は低いけれど、薄着でいても手足は常にぽかぽかしているのが自慢だったのに、今日も足先が冷えて寝付けない。

今回帰国した二週間を私は家族と、親しい友達と、日本は4年ぶりのオットと共に過ごすと決めていた。

心を一度にたった一つの場所にしか置きたくなかった。いつもなら分刻みのようにいくつも予定を入れるけれど、今回は一日に一つ以上の約束は入れなかった。目の前にいる人だけに心を注ぐ。それが私の最大限の誠意だった。つらい時に一緒にいられなかった人たちに対しても、今回会えなかった人たちに対しても。

帰国した翌日すぐ、海ほたるを通り、房総を訪ね、お花を供えてお線香をあげた。蝶々のようにひらひらと儚い彼女の横顔を思い出して、目の前がぐらん、と揺れた。

こたつに入ってコーヒーを飲み、夜にはお蕎麦をずるずると啜り、柚子の香りの蕎麦湯を飲み干しながら、私たちはあの頃のことや今のこと、これからのことを、笑ったり胸がぎゅっとしたりしながら話した。何十年経っても、まだ子供だったあの頃のままの、結束感と呼ぶにはあまりに緩い心地の良い関係性と、その圧倒的な安心感に、私は少し泣きそうになる。

ごめんね、すぐ駆けつけられなくて。ごめんね、何もできなくて。ごめんね。

帰り際またね元気でねと背中に回したその腕をなかなか離せない。このままここにいて何ができるわけでもないのは勿論わかっている。だけどあともうほんの少しだけ、そこに一緒にいたかった。また泣きそうになるのをぐっと堪えて、腕をほどいて、車に乗り込んだ。

行きには白波のたつ海を少し興奮気味に見ながら来たけれど、帰りにはもう暗くて海は見えなくなっていた。

その日一日運転して付き合ってくれた友達がおもむろに、おまえは何で日本を離れたのかと聞く。そう言われてみればそんな人生の選択の話を、こんなに長い付き合いの中で、私たちは一度もしてこなかった。

私が日本の社会でうまくやっていけると思う?と聞き返すと、彼はすぐにああそうかそりゃそうだなと納得した。

日本に残っていたなら、やはりうまく適応できなかったのか、それともそれなりになんとなくうまくやっていたか、本当のところは分からない。だって私は早々に飛び出してしまって、抗いもしていないのだ。

私は笑って、息苦しかったんだよと言うと、ちょっと悲しくなった。本当のことだけど、誰かにそう言うたびに、私は自分が少し出来損ないのような気持ちになる。大切な人たちから離れるほど息苦しかったのか、正直なところわからない。

ひとつひとつにじっくり時間を費やすということは、そこで生じるひとつひとつの感情とじっくり向き合うことでもある。

今回の帰国は、自分の心の深淵をじっと覗き込んでいるような、心の内側に深く深く入りこむような毎日だった。

自分の心の深淵をじっと覗き込んでいると、確かにその向こう側から深淵が覗き込んでくる。やがて私はその深淵に引きずり込まれて、深く蒼く冷たい水の底に沈んでいく。何が幸せで何が悲しいのか、考えれば考えるほど沈んでいく。

もしかしたら私は、水の底に横たわっているような冷たさをずっと感じて寒いのかも知れない。それでもそこに横たわって水泡が水面へと上がっていく様子を見ながら、不思議と穏やかな気持ちになっていくのを感じる。

あっという間に過ぎていく人生の中で、共に過ごせる短い時間はかけがえのないもの。悲しくても楽しくてもそこに一緒にいられる宝物のような時間をくれる人たちがいるこの世界は、答えを与えてはくれない。ただ水の中のように、残酷なほど静穏なのだ。


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