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忘れられない光景がある。

母方の祖父母と真珠湾の戦艦ミズーリを訪ねた時、二人が長い間手を合わせ、目を閉じて静かに誦経していた姿だ。

祖父はへっぽこ近衛兵で、戦時中集合がかかるたびに祖母が行かないでとすがりつく。それを何とか振り切ってもしょっちゅう自転車のチェーンが外れ、遅刻し上官に怒られる。乗っていた馬が暴走して上官の前を走り抜け、貴様敬礼せい!と怒鳴られる。そんなズッコケ話しか聞いていなかった。

でもそれだけのはずはないのだ。語られていない数々の思いを小さくなった祖父母の背中に感じて、さすがにぐっときた。

父方の家族にはもっと深く明確に戦争の爪痕が残った。

父の父は南方での戦闘で負傷し、沖縄の病院に搬送され、そこで爆撃に遭い戦死した。

戦友だった彼との約束通り、戦後祖父は祖母と再婚して父と叔父を育てた。

連れ子だった父は、とにかく誰にも迷惑をかけない「いい子」でい続けた。父はそのことについて一度も愚痴を言わなかったけれど、苦労の多い家庭環境だった。

歴史に「もし」はない。ないけれど、もしも父の父が戦死せず、帰ってきてそのまま暮らしていたら、きっと父の人生も大きく違っていただろうと思わずにいられない。もしかしたらもっと子供らしい子供時代を送れたかも知れない。もっとずっと幸せな人生だったかも知れない。

でも、そうなると父は母と出会わなかったかも知れないし、私もこの世にいなかったかも知れないのだ。

だから私はそのことを考えるたび、なんとも言えない複雑な気持ちになる。

父の本当の父は遺骨すら残らなかったので、まだ沖縄がアメリカの占領下だった頃、祖父が幼い父と叔父を連れて病院があった辺りに連れて行き、そこで拾ってきた石が代わりに祖父母のお墓に一緒に納められている。

墓石には倶会一処と刻まれている。浄土でまた共に会うという仏教の言葉だ。「家」という括りを取り払い、ただ皆でそこでまた会うのだという父の気持ちが込められている。

父の遺骨もそこに納められるのを見た時、ああこれでやっとみんな一緒になれたんだなと思った。

もう戦争で誰も祖父母や父のような経験をして欲しくないと思いつつ、では自分に何ができるんだと自問する。いつまで考えても答えが出る気がしない。

けれどこれは私が父や祖父母から受け取ってしまった業なのだ。だから答えが出なくても、家族とは、幸せとは、平和とは何かを一生考え続けるしかない。これからもずっと。

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