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月が沁みる夜

クリスマスの朝。雨が上がったほんの少しの間、外の空気を吸いにひとり散歩に出かけた。

所々煙突から煙が出ている。窓からツリーが見える家もある。昨晩食べ過ぎたのか、プレゼントを開けたあと二度寝しているのか、お昼近いのに外には誰もいない。

冷たい空気を吸いながら歩くと、頭が少しすっきりしてくる。けれど書きたいことがたくさんあるような気がするのに、ちっともまとまらない。

心を動かす何かがあると、私は写真を撮るように記憶して、それをなぞって言葉にする。

けれどこの年末はその写真がバラバラにちぎれているような感じで、言葉もちぎれちぎれにしか出てこない。

縁あって半年前に始めた新しい仕事は充実していて、上司や同僚にも恵まれている。何度か旅行もして、会いたい人たちにも会って、大きな病気も怪我もなく、静かに年を越せそうだ。

それがどんなに幸せなことかわかっている。けれど、私の心の中は幸せ一色ではない。

悲しい別れもあった。親を、伴侶をなくした友もいる。

誰かを失うということは、見える世界が変わってしまうということ。昨日までの世界が一瞬にして壊れてしまう。

そんな時に彼らのそばにいられずに、私の人生はほんとうに満ち足りているのか。

考えれば考えるほど答えが遠ざかっていき、霞のような絶望感を抱えながら歩く。再び降り始めた冷たい霧雨が体に染みてくる。

公園の脇を通りながら、ふと、暗闇で鍋をつつきながら、一体自分は何を食べているのか、美味しいのかどうかもわからないみたいなこの感情の闇鍋状態を、もしかしたら健全なものかも知れないと思う。

だって人生は幸せか不幸かのどちらかだけ、ということはないのだ。楽しい部分と、悲しい部分と、嬉しい部分と、腹立たしい部分と、全部混ぜこぜになってできているのだ。その時々で、そのどれかのフレーバーが濃く出るか薄く出るかの違いしかない。

だから私は、できないならこのちぎれちぎれの感情をまとめる必要もなければ、言葉にする必要もない、そのままにしておけばいいと思い至った。掴んで理解したところで、次の瞬間にはまたその形を変えてしまうかも知れない。

私にとって「書く」という作業は、その流動的な感情やものごとの刹那的な横顔を切り取るということにすぎない。

そしてそのどんどん流れていく感情やものごとに圧倒されて捉えきれないとしても、何かが失われるというわけでもない。

その圧倒的な流れに、私は全面降伏するだけだ。流れが去った後のがれきの中にも、何かは残る。それを拾って書きたいと思えば書けばいい。

さっきまで聴いていた坂本龍一の戦場のメリークリスマスを思い出す。

亡くなる数ヶ月前に撮影されたそのモノクロの映像から流れる、今までよりずっとゆっくりしたテンポ、繊細すぎるほどのタッチ。まるで骨が軋む音まで聞こえそうなほどの演奏がしみて、涙が出そうになる。

痩せ細りこけた教授の頬の辺りが、亡くなる直前の父の顔を思い出させる。父もこんな口元をしていた。

そんな風に感情が不規則にあちこちに飛んでいく。でもそれをまとめはしない。もうそのままにしておこう。

夜空を見上げるたびに月が沁みる。今年はそんな一年だったと思う。

月明かりに照らされ、自分の感情の隅々まで明るみに出されるような、少し痛みを伴う感覚。だけどそれを言葉にしようとすると、指先からこぼれ落ちてしまう。

年の終わりに、ようやくそれでもいいと思えたなら、きっとそれなりにいい年だったのだ。


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