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死なないように気を付けなければ

最近思っているのは、この一点だけである。
死なないように気を付けなければ。

いまほど病が身近な時代はない。
誰もが明日は我が身で、ウイルスに感染し、「軽症」を理由に入院を断られ、自宅療養するうちに病状が急変して死んでしまうかもしれない。

コロナだけではない。同世代の知人や仕事仲間が毎年のように急死している。あるいは大病を患うようになる。次は自分の番なのではないかと内心いつも怯えている。残された人生の時間は、いったいあとどのくらいあるのだろうか。その間に自分のできることとはいったい何だろうか。それを思わない日はない。

モーツァルトは「魔笛」の中で、自殺しようとする人を思いとどまらせる場面を二度作っている。
どちらも大人が死のうとするところを、子供が止める。そんなオペラは他にないかもしれない。何度も自殺を止めるオペラ...。

「魔笛」は明るく楽しい音楽でいっぱいの寓話だけれど、あちこちに憂鬱の影がある。登場人物たちの多くが「死」を口にする。あのパパゲーノでさえ、愛がないくらいなら死んだほうがましだという。
死の恐怖、死の試練、死の誘惑に対して、これほど正面から向き合うことを余儀なくさせるオペラだったと気が付いたのは、宮本亞門演出の二期会の上演で、歌手たちが演じるキャラクターが、みな必死に生きている人たちだと気づいたせいだろうか。一見遊び心に満ちた舞台であっても、登場人物たちのほとばしるような真剣さがあった。「試練」を課そうとする制度に対する怒りまでもが、そこには含まれていた。ちっぽけな穢れた存在として遠ざけられ顧みられることのないモノスタトスの怒りにまで心を寄せていた。それが、モーツァルトの音楽をいつも以上に真実なものにしていた。

井上ひさしは、生きていくことそのものの中に、苦しみや悲しみが全部詰まっており、生きるとは結局、病気と老いと衰えと死に向かって進んでいくことなのだ、と言っている。じつは人間の内部には「笑い」は最初から備わっていない。苦しみでいっぱいなのだ。だからこそ、「笑い」は意識的に作って、みんなで分け合っていかなければいけない、と。
それはモーツァルトにも通じるものかもしれない。

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