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#103 いつの間にか親の後ろを追っている

今日はチョコマフィンを作った。
板チョコを溶かして、ホットケーキミックスを混ぜて電子レンジでチンしただけの簡単お菓子だ。

先週からお菓子づくりを始めたのだけれど、これが面白い。ほんの少しの分量を間違っただけで仕上がりが違うし、室温によっても温める時間が異なってくる。出来栄えが自身の料理スキルと比例しているのが感じられて、もっと上手くなれる気がするし、頑張ろうという気になってくる。

ただ、派手な料理を作ることはしないし、まともにお菓子づくりをしたのは小学生以来だ。けれど、楽しんでいる自分がいて、少し驚きを隠せない。

まさか、自分がお菓子にハマってしまうとは……。
今日も器材を数点購入してしまった。

お菓子づくりを始めた理由

きっかけは、カフェ巡りに癒しを感じなくなったことだった。

以前の僕は、毎日のようにインスタグラムに流れてくるカフェの写真を眺めて「近いうち行ってみたいな」と思うことを繰り返していた。

そして、実際にそれらのカフェに赴き、店内を見渡す。

以前まで入店して感じられていた癒しがどことなくない。インテリアに魅了されることもないし、うまくリラックスできていなかった。

それがどの店舗に行っても感じるようになり、「いよいよ、おかしいぞ」と思った。

そして、自身を見つめ直し、なぜカフェに行っているのかを考えてみた。

どうやら、「お菓子を食べたい」
ただそれだけだったようだ。

それも誰かと食べること、時間、場所を共有したかったのだ。

でも、あいにく僕と一緒にカフェを巡ってくれる相手がいないので、どうにもカフェでの居心地が悪かったのだ。

だから、カフェでお菓子を食べるのではなく、テイクアウトしてみてはどうか、と思って、カフェの持ち帰り用のケーキやドーナツを買って帰っては、親の家へと持ち込み、食べるようにした。

すると、不思議と幸福を感じられた。
やはりよろこびを共有することで、僕は満たされたようだ。

でも、少しどこか違和感を感じた。
せっかくサードプレイスとなるべきカフェで入ってすぐに出ていくようなテイクアウトをしているのだろう?と。

テイクアウトしてお菓子を食べる。
それはつまり、カフェの魅力を十分に活かしきれていないことになるのでは?
カフェにお菓子を買いに行く必要がないのでは?

じゃあなぜ、カフェやケーキ屋さんでお菓子を買っているのか。

スーパーで買っているお菓子を買いたくないから、だ。
それらには多くの添加物を入っていて、長期的に見れば身体に悪い。それに僕の体質は、添加物を含んでいるモノを食べると身体に影響が出やすい。だから、あまり食べられない。

じゃあどうするのか?

考えた結果、自分で作ればいいのだと気づいた。

そして、今日に至る。

いつの間にか親の後ろを追っている

チョコマフィンを作っていると、母がよくお菓子を作ってくれたことを思い出した。

ドーナツやマドレーヌ、クッキー。

もちろん、市販のモノも多かったけれど、僕が幼い頃よく作ってくれた記憶がある。僕もクッキーの型を抜いたり、マドレーヌの生地をボールで混ぜていた。

今のいままで忘れていた記憶だけれど、一度思い出すと瞼の裏に鮮明に映し出される。

僕はお菓子を作るのが楽しくて大好きだった。

そして、母もお菓子を作るのが好きだという。(母の場合は料理すること自体らしいが)

自分の喜びと僕ら子どもたちの喜びの共有が楽しかったみたいだ。

そう考えると、今の僕と同じなんじゃないかと思えた。

まだ親には作ったお菓子を共有していないけれど、近いうち渡しに行こうかと思っている。
やっぱり僕自身作ったモノを美味しいと共感してほしい。よろこびを共有したいから。

きっと僕は、いつの間にか母の後ろを追っている。

母と同じようにお菓子を通じて、共感したいと思っている。そして、それが趣味になろうとしている。


それをなぜだか悦んでいる自分がいる。
「やっぱり自分も母の子なんだ」とうれしく思っている僕がいる。

それが不思議と孤独を癒してくれている。

誰かに手を差し伸べられる存在でありたい

一人暮らしを始めて以降、孤独を感じることが多くなった。家にいるのが1人なので、当然といえば当然なのだけれど。

かつて僕は、人は1人で生きていけると思っていた。
経済さえ回っていれば、1人で暮らすことは問題なくこなせる、と。

でも、最近は部屋に1人で閉じこもることができなくなった。必ず誰かの声が聞きたくなって外に出る。
誰とも予定が合わなければ、スーパーのレジ打ちのおばちゃんと話す。

それくらい僕は、1人で生きられなくなったようだ。

僕は弱くなったのだろうか?
それとも機械的な人間から感情的な人間に戻りつつあるのだろうか?

その答えはわからないけれど、一つ思うことは「まだまだ僕のような人はこの世に溢れている」ということ。

孤独を癒すために誰かに会いに行くような人が、まだまだたくさんいて、心の奥底で共感できる何かを求めているということ。

だから、僕はそういう人たちに手を差し伸べられる人でありたい。

母が僕らに寂しい思いをさせないように尽力していたように、僕もまた声をかけられる人でありたい。よき理解者でありたい。

豊かな生活には、余白が必要だ

と、いま読んでいる「本当に必要なものだけに囲まれる、上質な暮らし」という本に書かれていた。

心に余白を生むための存在。

不安や不満で敷き詰められたココロを解きほぐす、そんな存在でありたい。


そんなことを強く思った、お菓子づくりだった。

おわり。

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