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燃え尽き症候群と実体験のズレ

私は、昨年(2020年)8月中旬に燃え尽き症候群になった。ALSの母を看護する毎日を行い、献身的に取り組んだが、それは次第に自らの精神と肉体を貪る結果になったようだ。

今年(2021年)に入って、その時のことをふと考えた。なぜ私はそうなったのか?そして、今なぜ立ち直れたのか?

そのようなことを考えているうちに、「私の知っていた燃え尽き症候群」と「私が経験した燃え尽き症候群」では、どこか違うのかもしれない。もしかしたら、そこに解決の糸口があったりするのかもしれないと感じた。

今回のnoteはそのような内容になっている。



「私の知っていた燃え尽き症候群」

Wikipediaで燃え尽き症候群と打ってみた。説明が出てきた。

燃え尽き症候群………一定の生き方や関心に対して献身的に努力した人が期待した結果が得られなかった結果感じる徒労感または欲求不満[2]。あるいは、努力の結果、目標を達成したあとに生じる虚脱感を指す場合にも用いられる(後述)。慢性的で絶え間ないストレスが持続すると、意欲を無くし、社会的に機能しなくなってしまう[要出典]症状。一種の心因性(反応性)うつ病とも説明される。【原文ママ】

簡単にいうと、「めっちゃ頑張ったのに、大した成果が得られない。」ということだろう。私はこのように解釈したが、人それぞれで違うのかもしれない。

自身が燃え上がって取り組んだが、燃焼しただけで手元に結果は残されていない。だから、燃え尽きただけの症状なのだろう。たしかに、これはかなり深刻だと思う。

努力不足と言ってしまえばそれでおしまいかもしれない。ただ、例えば、介護現場において、患者さんに対して献身的に応援したり、介助をしたりしても、その患者が何一つ改善しようとしない、その素振りも見せないと、慢性的にストレスが溜まり、「しても無駄」思考になる。

私は、これについてかなり同意できる。



「私が経験した燃え尽き症候群」

私が経験した燃え尽き症候群はどうだったんだろう。献身的に取り組んだが、変わってくれなかったから起こったのか。はたまた、慢性的なストレスなのか。それらも原因の一種であることは間違いない。

ただ、決定的なものは冷静になってみて分かるものかもしれない。

真の原因は、「やりたいことができない」であった。

燃え尽き症候群を調べていると、頑張って成果を出したけど、そのあと頑張れなくなったりすることもあるようで、それもこの症状の一種なんだと思う。つまり、成果の有無は状況によって意味をなさなくなるのかもしれない。

成果が出る出ないよりも、成果を出すまでの「頑張っている期間」に何か問題があるのかもしれない。

では、その「頑張っている期間」について考えてみた。例えば、十分な結果が得られなくても頑張っている期間に夢中になり、燃え尽きない時はどういう時なんだろう。

私は、ゲームをしてる時には倒したいもの、クリアしたいものが達成できなくても何時間でもやっていたことがある。また、部活動をしていた時は、途中で諦めずに最後までやり遂げたものだ(余談ですが、私の大会成績がweb上に載っているぐらいにはなった!)。

この部分や今までの類似体験に共通するものはなんだろう??


A.「好き」「やりたい」


それは自分のやりたいことだったから。そして、好きなことだったから。

つまり、燃え尽き症候群は、「真にやりたいことや好きなことを我慢して、別のことに取り組んだ結果、大した成果をあげられなかったり、成果が不十分だったときに起こる」のではないのかなと思いました。

残念ながら、これはあくまで実体験の1つであり、全て共通するとは思っていない。ただ、こういう観点も実際あるんじゃないのかと感じた。

やりたいことを我慢しすぎたのだ。だから、やりたいことが分からなくなるのだ。



どうすればいいのか?

この燃え尽き症候群の問題は、解決策が難しいことだと思う。精神の問題は個人差があるため、どうしても万人への対処法がなかなか見つからない。

ただ、こういうことを考え続けることがもしかしたら解決策なのかもしれない。身近に起こったなんでもないことの原因が本当にそうなのか?実は別の観点があるのじゃないのか?

考え続けることは素晴らしいことであり、学び続けることは最高の快楽だ。

そして、もう一つは「休むこと」

適切な休み方を人それぞれだが、何としても休むことだ。

これ以上は学びが薄いので、ここで止めておくことにする。



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