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「見られる」意識と発信する動機のバランス

こんにちは。今日は「見られる」について。

発信するリスク

このnoteは自分の考えたことを発信する内容がメインなのですが、発信する上で最低限の読みやすさのようなものは意識するようにしています。

文字数が多くなりすぎないようにする、なるべく話の流れを自然にする、などがそれに該当するわけですが、それでも「見られる」ということには若干の恐怖感もあります。

私に情報が届かないからまだマシなのですが、例えば「その考えダサい・キモい」「人の受売りしか書いてない」みたいなことを真正面から言われると凹んだり怒ったりすることでしょう。

考えがダサい・キモイは個人の印象に寄るところですし、そもそも人の受売りなしで文章が成立するものでしょうか、私たちは思考の出典を全部かけるものでしょうかと言いたくなってしまいます。

ですが悲しいかな「見られる」ということは自分と噛み合わない人が存在する可能性を心に置くことをある程度許容しないといけません。

思考は常に溜まっていく

しかし、私がそれでも日々割ける時間がある限り発信を続けていく、ということはある程度予測できています。

こうしてキーボードを叩いているのが純粋に楽しい、ということも理由の一つですが、どうせ発信しなくても頭に思考は溜まっていきます。

そして溜まった思考はどこかで発散しないといけません。故に、発信活動は必要になります。単純な理屈ですね。

ついでにそれを見てもらって何かしら反応が来れば嬉しいものです。noteはその点においてとてもありがたいツールだと私は感じています。

他人が「見たい」のは加工なしの自分かも

ところで、私が創作系の案件を始めてから四半期くらいが経過しているのですが、そこに提出したシナリオのいくつかがYou Tubeで作品として発信されるようになってきました。

もちろん仕事相手が色々と私の書いたものに手を加えたりはするのですが、それでもシナリオ担当にはある程度の「オリジナリティ」が求められているのだろうな、と感じています。

考えてみてください。世の中すべての漫画がすべて同じような展開、画風だったりしたらいくつも作品を買う気はちょっとしませんよね。なにか違いを、オリジナリティを、と求めるのは当然です。

「見られる」上でもそれは同じことで、見る側に配慮しすぎてオリジナリティを失っては元も子もないというか、それこそ自分の中で「これは自分の言いたいことじゃない」という鬱憤が溜まっていくだけです。

他人が見たいのは彼らとは違う思考を持った人間です。その一つになる可能性をそれぞれの発信者は秘めているはずです。

「見られる」ことをどれだけ意識して加工するかは人それぞれですが、とりあえず私は今のスタンスが一番楽なのでこのまま書き続けていきたいと思います。

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