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反省は内省。態度とは別物ではないか

こんにちは。今日は「反省」について。

反省を終えるとき

自分の間違いを認め、反省することは成長のために欠かせない要素の一つではあります。しかし、それは自分が「反省を終えた」と思うところまでに留めるべきです。

無限にミスを反芻し反省し続ける、他人から「もっと反省しろ」と言われなくなるまで反省の態度を続けることにはほぼ意味がありません。

事実を見返し、反省し、そして次へ進む答えを自分で見つけた時点で反省は終わらせるべきではないでしょうか。

反省する目的を次へ進む答えを見つけることとするならば、それ以降で「反省」と呼ばれるものは、ただの自己否定、つまり自分の持っている性能を落とす行為にしかなりません。

反省する「態度」は反省の本質ではない

ここで反省することと反省しているとみられることの違いをもう少し考えてみたいと思います。

反省することは自分を省みて間違っていたところを確認し、それを繰り返さないようにするところまでです。言ってしまえば内省の一つです。

対して反省しているとみられること。つまり反省の態度は対外的なものです。

そして多くの場合、迷惑をかけた人に対して反省した内容を伝えるところまでで十分なところ、「すいません」「申し訳ない」を繰り返して相手に納得させることを、反省の態度と呼ぶことができるでしょう。

つまり、この反省の「態度」の終了を決める要素は「相手の満足」ということがいえます。

さらにこの反省の態度に感情をのせ、自尊心を削るようなことをしてしまうと、「相手が満足するまで自分の自尊心を下げ続ける」という自分にとって極めて不都合な結果をもたらします。

反省を伝える演技

これは私の好きな要素ではないのですが、反省した事実は適切に相手に伝えつつ、反省の態度は「心にもないことを演じる」くらいでちょうどいいのかもしれません。

反省には失敗を繰り返さないという実利が求められますが、反省の態度は相手の納得さえ得られればいい話です。それが演技か本心かは相手の納得には直接関係しません。

最も重要なのは「反省の態度」の表現によって反省の内容、あるいはそれを反映した次の行動の実行が抑圧されないことです。

人間は群れで生きていると同時に、どうしようもなく個人として存在する生き物です。個人の自尊心は何事においても優先して考えないと、群れの中にいても生きられなくなってしまいます。

逆に自尊心を捨てた反省は、最終的に自分の行動を止めることにもつながってしまい、反省した意味・意義をなくしてしまいます。

反省は内省であり態度とは異なることを理解した上で、自分が反省を受け取るときは相手の行動を促すようにしたいものですね。


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