「見つかる」問題、「見つける」問題

こんにちは。今日は「問題」について。

問題は見つけるものか見つかるものか

仕事では依頼人の抱える課題を見つけて解決していく、というプロセスを何度も繰り返すことになります。それが他の人の役に立ち、感謝され、対価をもらうというのが基本的な流れでしょう。

ところで、この課題とか問題点といったところをどのように見つけるか、については少し議論が必要です。

例えば、相手が商品の売上が悪くて困っている、というのは容易に「見つかる」問題ですが、その奥には在庫管理とか利益を上げるためのスキル不足などの「見つける」問題点が存在します。

もっと言えば、店内にホコリが一つ落ちている、10:00開店のはずが10:01にシャッターが開くのが常態化している、というのも「見つける」問題点かもしれません。

今回はそんな問題の属性について少し考えてみたいと思います。

そもそも、その解決って必要?

先程の分類でいくのであれば、現在困っていること=「見つかる」問題点を見つけるのは簡単です。しかし、それだけで問題を解決まで持っていくのは困難な事が多いです。

なぜなら、見つかる問題はその裏にある小さな課題の集合によって成り立っている場合が多いからです。

これらの小さな課題は前述の「見つける」問題点に属しますから、ここでコンサルとかの人は頭を使って問題点をあぶり出すのでしょう。

しかし「見つける」問題点の中にははときに解決したい「見つかる」問題点にほぼ関係がないものもあります。

先の例で行けば、お店のホコリ一つ、あるいは開店時間の1分の遅れなどは確かに「見つける」問題ではあるのですが、それを解決することが売上アップという「見つかる」問題点の解決に寄与しないのではないでしょうか。

むしろそれらの問題点の解決、あるいは説得などの作業に余計なコストがかかってしまう、最悪説得の失敗により組織の分断を招き、売上アップどころの騒ぎではなくなることもあるのではないでしょうか。

「見つける」ことの問題点

このように、目的に関係ない「見つける」問題点をいたずらに議論することはときに危険な行為になりうるといえます。

素人考えではありますが、これらの本筋に関係ない問題点を見つけて「問題点は下記のとおりです!」と提出してお金をもらう、というケースすらあるかもしれません。

さらに悪いのは「議論を起こそう」という意図だけに基づく問題提起です。その議論の先にあるのは議論に巻き込まれた人たちの意見の分断しかありません。

そんなわけで、私は流行りの思想問題・スローガンなどに飛びつくのは控えたい、と自戒しています。

これらの中には目的が不明瞭だったり、たとえ目的が明確でもその解決に寄与するかの判断がつかないものもあるからです。

あまりにも議論が多すぎる

現代社会では主張や議論を起こすことがとても簡単になってきている、というのが私の印象です。

その副作用として、より重要な、というか解決によって得られる利益が大きい議論が埋もれてしまっている、という側面もあります。

確かに問題点は問題点です。解決したほうが良いこともあるでしょう。しかし、問題点をすべて解決することは実際には不可能です。

ホコリ一つ無い店内を実現するために徹底した掃除に今の何倍ものコストをかけることは正しいでしょうか。

もちろん問題点の解決を諦めろ、とは言いませんし、言えません。ですが社会全ての問題点について早急な解決を求めるのは狭量かつ非現実的とはいえます。

あらゆる問題点が解決した理想郷な未来が、その解決のために滅んでしまっては意味がないですしね。

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