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私が物語をつづるとき

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#イタリア

怒りはあとからやって来る

カッとなる、そのような場面は、私の人生であまりなかったような気がする。 その代わりと言ってはなんだが、突然、堰を切ったように怒りの感情がとめどもなく溢れてきて収拾がつかなくなる時がある。 例えるならば、蛇口がついた樽を頭に思い浮かべて欲しい。 通常ならば、負の感情がザバザバと降ってきても樽が一杯になることなく、蛇口からそれらが流れ出てくれるというわけである。 ところがごくたまに、1年に1回あるかないか、蛇口が壊れて樽は満杯になり、それどころか上からだらだら負の感情が流

午後四時のカプチーノ

2017年秋、ミラノでの生活をスタートさせたばかりの私は、ただただ毎日疲れていた。 憧れの地に来たはずなのに、何をするにも分からないことばかりで疲れる。 いや、イタリア語は分かるのだが、想定外のことが次々と起こり、息つく暇もない。 朝目覚めると、古めかしい天井が目の前に入ってくると同時に隣の住人が水道を使いながら大声で話す声が聞こえてくる。 何だか遠いところに来てしまったなと、胸の奥がキュッとなった。 もし留学生活が春夏にスタートしていたならば、カラッとした気持ちの

甘い甘い朝のひととき

タイトルを見て、甘い朝の睦言を想像した方には先に謝っておきたい。 今回の話は、男女のソレではなく、文字通り、イタリアの朝ご飯は甘いということである。 いや、イタリアの朝ご飯は、甘過ぎる(troppo dolce)。 チョコやピスタチオなどのクリーム入りのブリオッシュにコーヒーかカプチーノ、オレンジジュースというのが、最もシンプルなイタリアの定番朝ご飯である。 ここ10年ほど、一人暮らしの気軽な身なので、朝ごはんをきちんと食べることが少ないのだが、朝ごはんを食べるとした

暴力的な悲しみに打ち勝つために

子供の頃はしょっちゅう泣きじゃくっていたのに、大人になってからとんと泣くことが少なくなった。 それでも数年に一度くらいは、胸から込み上げてくる悲しみに争うことができず、嗚咽し、とめどもなく涙を流すことがある。 10年前、母が死んだ。 様々な手続きを済ませ、夜遅くに帰宅すると祖父母が家の明かりとストーブをつけて待っていてくれた。 「ご飯食べたか」 と聞かれ、朝、ビスケットを3枚食べて以来、何も食べていないことに気づいた。 その時、食卓には白い冷やご飯が残っていた。

とりあえず、トマトパスタ

おもむろにパスタの袋を破り、グラグラお湯が煮立った鍋に、塩とパスタを一掴み入れる。 茹で上がったら、瓶詰めのトマトソースをかける。 なんてことのないトマトパスタの作り方であるが、世界中の留学生は、このパスタを一度は作ったことがあるのではないであろうか。 便利なの世の中なもので、すでに味付けされた瓶詰めや缶詰のトマトソースや乾燥パスタは、どこでも簡単に買うことができる。 またホールトマト缶を使ってソースを一から作るという、やる気のある人もいるかもしれない。 いずれにせ

終わってしまった夏

夏の午後8時、 南欧の空は、嘘のようにまだ明るい。 底抜けに澄んだ青空と、昼間より少し柔らかくなった太陽。 空気だけは、少しずつ夜の気配を纏いはじめ、優しく私の肌を包む。 午後のエスプレッソだけのつもりで待ち合わせした彼が、まだ隣にいる。 好きな音楽から仕事のことまで、お互い知らなかった部分を埋めるには、エスプレッソ1杯では到底足りなかったようだ。 ふと会話が途切れた時、はっとした私たちは、次の言葉を手繰り寄せながら時計に目をやる。 さぁ、これからどうしようか。

樺太のバターご飯

私の祖母は、樺太(サハリン)で育ったという。 祖母が3歳の時に、教師であった祖母の父が一家を連れて豊原(ユジノサハリンスク)に移ったそうだ。 その時から、終戦のわずか二日後、1945年8月17日に漁船に乗り、命からがら本土に戻ってくるまで、祖母は青春時代を樺太で過ごした。 この引き揚げの際には、魚雷で沈められた船もあったり、樺太から戻ることができなかった人もいたり、悲しく辛いことがあった聞く。 ところが、樺太で過ごした少女時代を語る祖母は、いつも楽しそうで、本土に戻っ