暴力的な悲しみに打ち勝つために
子供の頃はしょっちゅう泣きじゃくっていたのに、大人になってからとんと泣くことが少なくなった。
それでも数年に一度くらいは、胸から込み上げてくる悲しみに争うことができず、嗚咽し、とめどもなく涙を流すことがある。
10年前、母が死んだ。
様々な手続きを済ませ、夜遅くに帰宅すると祖父母が家の明かりとストーブをつけて待っていてくれた。
「ご飯食べたか」
と聞かれ、朝、ビスケットを3枚食べて以来、何も食べていないことに気づいた。
その時、食卓には白い冷やご飯が残っていた。
白いご飯は、冷えるとモチモチになりとても食べ応えがある。
冷えたご飯が食べれないという人もいるが、私は冷えたご飯の食感が好きである。
ストーブにあたっているうちに急に空腹を覚えて、白い冷やご飯にふりかけをかけて食べた。
次の日からこなさなければいけないお通夜や葬儀のことを思った。
お腹が落ち着いたおかげであろうか、その日は不思議とよく眠れた。
おそらく私はその1年後くらいに、急に母がいないという事実に胸の奥がキューっとなり、泣いた気がする。
そしてつい最近、私はローマの韓国料理屋でビビンバを食べていた。
このビビンバを食べて、次の目的地に向かうための列車に乗らなければならない。
そんな時に、祖母の入院先の看護師さんから祖母の容態がよくないため、覚悟するようにという連絡が入った。
帰国したい気持ちと予定をこなさねばという気持ち、両方が入り混じって何も考えられなくなって、釜にこびりついたパリパリのお米を剥がしつつ、夢中で口元に運んだ。
咀嚼しているうちに自分は生きている、というごく当たり前のことを思った。
私は、会計を済ませ、次の行き先の列車に乗った。
奇しくも、暴力的な悲しみがやって来たとき、私はいつもお米を咀嚼している気がする。
今後生きていく中で、幾度となく、嵐のように悲しみは私を襲うのであろう。
それでも嗚咽を堪えながら、吐きそうになりながら、食べ物を咀嚼し、飲み込んだ人はもう大丈夫だ。
涙と共に飲み込んだご飯は、私たちを強くしてくれる、そう思いたい。
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