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樺太のバターご飯

私の祖母は、樺太(サハリン)で育ったという。

祖母が3歳の時に、教師であった祖母の父が一家を連れて豊原(ユジノサハリンスク)に移ったそうだ。

その時から、終戦のわずか二日後、1945年8月17日に漁船に乗り、命からがら本土に戻ってくるまで、祖母は青春時代を樺太で過ごした。

この引き揚げの際には、魚雷で沈められた船もあったり、樺太から戻ることができなかった人もいたり、悲しく辛いことがあった聞く。

ところが、樺太で過ごした少女時代を語る祖母は、いつも楽しそうで、本土に戻ってからも、豊原の女学校の同級生たちと何度も同窓会を開いたと言う。

信じがたい話かもしれないが、太平洋戦争中、祖母は、樺太にて食べ物に困ったことはなかったと語る。

それどころか、鮭や鰊が豊富に獲れたため、朝から魚を食べていたらしい。

引き揚げてからの食糧事情は大変であったと聞くが、樺太ではいつも美味しいものを食べていたと聞く。

そんな祖母から聞いた樺太でのご飯の中でも、バターのっけご飯は、私の心を打つものがあった。

私が小学校中学年の時だったと記憶しているが、ふとバターの話題が出た時に、祖母が昔食べたバターのっけご飯が美味しかったとしきりに言うのである。

バターはパンに塗るものだろうと思っていたから、少々びっくりしたが、当時の私は俄然興味を持った。

ところがその時は、勝手に冷蔵庫のバターを使ってはいけないなと思い、試さずに終わった。


このバターのっけご飯の記憶の扉が開いたのは、30も近くなってイタリア・ミラノに住み始めてからである。

私が大学に進学し、一人暮らし始めた平成最後の10年間は、バターが品薄になり、価格もどんどん高騰していったので、スーパーでバターを手に取ることがなかった。

ところが、イタリアでは日本より乳製品がとても安く手に入れることができる。

そこでミラノでバターのっけご飯を試してみることにしたのである。


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まず使ってみたのは、ラッテリア・ソレジーナ(Latteria Soresina)というメーカーの無塩バター、ブッロ・ソレジーナ(Burro Soresina)。

ちなみにこのメーカーは、1900年創業の老舗らしい。

250gで5€と高めであったが、缶にたっぷり入っている。

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試しに少しだけ口に含んでみると、今まで食べてきたバターとは全く違う。

ベタつきや臭みなどはなく、まるで新鮮なミルクのようであった。

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そしてもう一つ、ベッピーノ・オッチェッリ(Beppino Occelli)のバターも購入してみた。

こちらは、1976年創業のバターやチーズなどの乳製品を生産している会社である。

こちらも100g2.5€とまあまあな値段である。

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イタリア産のミルクから作ったフレッシュな生クリームのようなバターということである。

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持ち帰る際に少し温まってしまったのか、残念ながら花のマークは消えてしまっていた。

それでもひとかけらそのまま口に入れてみたら、こちらもミルクのようで、最後に口に残る脂によって、これはバターだったと思い直すほどのフレッシュさであった。

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さて、早速バターを使ってバターのっけご飯を作ってみた。

作ってみたというほどのものではない、ただ炊いた白米の上にのせるだけである。

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貴重な日本から持ってきた鰹節もパラパラ乗せ、イタリアのスーパーで買った出汁醤油を垂らす。

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ミルクの旨味とコクのあるご飯を口に運んでいると、何とも言えない背徳感が湧き上がってくる。

分かる、これは食べ過ぎ注意な危険な美味である。

この他、購入したバターは、きのこやニンジンを炒める際に使ったが、どれも香ばしくていつもの炒め物を豊かにしてくれた。

品質の良いバターを買ったのだから、フレンチトーストなどおしゃれに食べても良いものを、どうやら私の舌は、バターと醤油という組み合わせを求めているらしい。


またせっかくフレッシュなバターということで、レーズンを使ってレーズンバターも作ってみた。

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これをバターが多めのクッキーに挟んで食べたらレーズンバターサンドじゃんと思いながら、そのまま食べてしまったのだが、これは日本に帰ったら、六花亭のバターサンドを食べたがっていた祖父母に作りたいと思ったのだった。

六花亭のバターサンド、お取り寄せすると送料が高いので、北海道物産展が開かれるのを待っているのである。


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今、「半ドン」という言葉を聞いて、すぐに意味が分かる人はどれくらいいるのであろうか。

2002年度に完全学校週5日制になるまでは、第二・第四土曜日と毎週日曜日しか週末のお休みはなかった。

つまり、第一・第二・第五土曜日は、午前中だけ学校に行かねばならなかったのである。

そのように午前中だけ学校に行かない日を「半ドン」と呼んだ。

大人たちは大変だったかもしれないが、午前中で家に帰ることができるそんな土曜日は心躍るものがあった。

私の両親は共働きであったため、学校まで迎えに来てくれるのは祖父母であった。

お迎えとは贅沢なと思うかもしれないが、何せ家から学校に行くまでは、延々と田んぼ道を歩かねばならず、人通りも少なく危険なので、下校時は祖父母のお迎えが定番であった。

半ドンの日に家に戻るとすぐお昼ご飯なのだが、土曜の午後は何して遊ぼうという高揚感も相まって、お昼ご飯に対する期待も相当なものであった。

子供心ながら無条件に嬉しかったのは、校区内にあるパン屋さんに寄ってもらうこと。

もちろん下校中の子供だけで入ったら、先生に怒られるのだが、保護者の付き添いがあれば問題ない。

現在、そのパン屋さんは閉業してしまっているのだが、クリームパンやりんごのパン、桜餡パン、サンドイッチなどなど、次々と何を食べたか思い出すことができる。

もう一つ、嬉しいお昼ご飯は、養鶏場の卵で作るスクランブルエッグか目玉焼きである。

帰り道に養鶏場があり、卵が自動販売機で販売されている。

鶏の鳴く声とムッとする小屋の臭いは、今でも覚えているのだが、卵の自動販売機に併設されている飲料の自販機で、紅茶を買ってもらうのも楽しみであった。

家に帰ると、早速お昼ご飯の準備。

熱したフライパンにバターを落とし、溶いた卵をジャッと入れる。

バターがフライパンの上で溶けてくる時の匂い、何度も嗅いでいるはずなのにいつもワクワクする。

日によっては、ミックスベジタブルや竹輪など冷蔵庫にあったものも入れたりする。

それに白いご飯と、祖母の常備菜の漬物と煮豆が並べば、お昼ご飯の出来上がりである。

11時半のサイレンを聞きながら帰宅し、正午ちょうどには食卓につくことができるという簡単お昼ご飯である。


ミラノの自宅でも、少女時代の記憶を頼りにバターを使って卵を料理してみた。

フライパンでバターを焦がしている時が、一番幸せを感じるような気がする。

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スクランブルエッグではなく、とろっとした簡単オムレツ。

卵を一気に2つ使えるのも大人の特権である。

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味付けは砂糖と塩。

よく卵料理の味付けは、甘いものがよいか塩味のものがよいか意見が割れるが、私は断然甘い卵焼きが好きである。


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この文章を書いているうちに、幸福な子供時代の記憶が鮮やかに蘇ってきた。

炊き立てのご飯、卵、そしてバター。

これらは丸いほっぺの少女の生活には欠かせないものであった。

奇しくも、バターというものは、祖母の樺太と私の子供時代を呼び起こすものなのである。


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