生と死
夢を見た。
病院。自分の関係者らしきおじさんが亡くなっている。(実際にそんな人は存在しない)
アルミの膜に覆われて、自宅へ帰る所に付いて行く。
多分この辺の記憶は、母が入院していて病室に泊まっている時に見た同じ病棟の患者さんが運ばれていく姿を見たからだと思う。
自宅の建物のエレベーターに乗る時、スタッフの方が担架で運ばず、その亡くなった人を抱いた形で乗った。狭かったからかも知れない。
そこに、見知らぬ人が乗って来た。
若いご夫婦で、奥様の手の中には小さな赤ん坊が抱かれていた。
私が赤ん坊をじーっと見ていると、視線に気付いた奥様は
「昨日産まれたばかりなんですよ」
と、とても穏やかな笑顔で私に声をかけてきた。
それに返事をしたのかは覚えていない。
ただ、それを遠くから眺めている自分も居て。
このエレベーターという小さな箱に「生と死」が同居している。
たった一瞬の出来事で、何とも言えない気持ちになった。
最近ちょっとハマっている漫画があって、時代や国は違えど戦争シーンが続いていたから夢に影響を与えたのかも知れない。
しかし、私の夢のリアルな所が「自宅の団地のエレベーター」である所。
でも今回のこの夢は死がとてもリアル過ぎて。
母を想う
父は、母が亡くなってからまるで抜け殻だ。
年齢的にもボケる年だろうけれど、元々人の話を聞いているようで全く的を得ない返事をするような人だったけれど、それが更に酷くなってきている。
よく物を忘れる人だったけれど、それも酷くなっている。
私も、もう何年も前に治療した抗がん剤の副作用として、著しい健忘があるので、二人で忘れてしまってはもう大変な事になる。
まぁ、それはまた別の話として。
私が今行っているクラウドファンディングで「部屋を借りたい」と父に話した。そして実際色んな物件をPCからもスマホからも検索していて、毎日のように間取りを見ては場所を確認し、地域の名前を言って父にどんな場所か、家から近いのかを聞いてみたり(産まれてこの方、物心着いてから引っ越しをした事が無いので他の土地は知らない)
物件的に広くて安くて家よりも新しいとか、色々父に話していたら
「じゃあ俺がそっちに行こか」
と突然言い出した。
結局は、40年近く家族3人で暮らしてきたこの家に居ると、どうしても母の事が頭から離れない。勿論、遺影は飾ってあるし、全く同じ写真の2L版も額に入れて骨壷の前に置いてある。仏壇は昔からある。
母の作ったものや、母が使っていたものも殆どそのままで、どうしても、歯磨き用のコップでさえも処分が出来ないでいる。
そんな場所に居ると母を思い出して辛いのだろう。
気持ちはわかる。私もそうだから。だけど私達は生きているのだから、生活していかなければいけない。父が独り暮らしなんて今更出来る訳もないし、更に手が掛かるじゃないか。生活費も馬鹿にならない。それに…
「この家を離れて何をするの?何かやる気になるの?気持ちが晴れそうなの?」
父の事だから、全く新しい場所に居たからって、そんな遠くには行かないだろうし、忘れられる訳が無いんだから何処に行ったって一緒だろう。
「それは…無いだろうなぁ。」
「でしょ?それならここに居るのと変わりないじゃない。どうせ掃除も家事も出来ないんだから、今更別々に暮らす意味がわからん。」
酷い娘である。
実際、クラファンをやり始めただけで、達成しなければなんにもならないのに。何を言ってんだか。
しかも私は何度もバイトに落ちまくってるし。(もう慣れてきた)
生活費だって今ですらカツカツなのに、何を言ってんだか。
私は貰った障害者年金を全て支払いに使っている。勿論、父の年金からは一月毎に半分引き出して、家賃分(私の口座から落ちる)だけ貰い、残りは父が「小遣いが無くて」と言い出したら一万円ずつ渡している。
知ってるか?私の年金は全て生活費で消えて行っているんだぞ。
勿論、猫のご飯や砂、ネットで買い物するものも全て自分のクレジットカードで支払っている。
うつ病で良かった
今、食欲が無い。晩御飯を食べない時が暫くあって、その後はちょっと食べようと、何とか白ご飯を食べるようにしている。
父は朝大量に食べるので、晩御飯は少なめで良いらしい。(間食のおやつが酷い)
ちなみに一昨日の晩御飯は、納豆一人2パックと白ご飯と、貰い物のザーサイのピリ辛味。どっちもご飯に合う。納豆に卵一個使うこの美味しさよ。
(父は子供の頃東京に住んでいたから納豆好き。私も子供の頃から好きだった)
という量で生きている。たまーにお惣菜が色々入ったちょっとボリュームのあるお弁当を食べると、必ず胃もたれを起こす。
先日、体重計に久し振りに乗ったら体重がガッツリ減っていた。-3.5キロ。
病院では乗っていたのだけれど、服を着たままだったから気付かなかった。
ちなみに今の体重は、ガンが見つかる直前ぐらいと同じ。
当時は何を食べても太らなくて、体重も減ってるしラッキーとか思っていた自分をバカと言ってやりたい。それはガン細胞に栄養を与えていただけの事だったのだ。
多分今は食べていないから減っているだけだと思う。
本題からずれた。そう、うつ病は気力を無くすが、好きだったものとか、何と言うか全ての欲が消える。興味が無くなるというか、何と言えばいいんだろうか。今までガッついていた対象に対して「あー…そうなんだー…」ぐらいの反応しか出来ない感じで。
ただ、睡眠欲だけは相変わらずある。
うつになる直前も、仕事から帰って晩御飯を食べずに真っ先に寝ていた。
「眠れない日が続く」っていうだけがうつ病の症状ではない。
「眠ってばかりいる」っていうのも立派なうつ病の症状なのだ。
脳細胞がオーバーヒートを起こしてバッテリーが上がったようなものかな。
私は元から寝汚いので、納得?するまで起きないし、起こされても起きない。
最近は変な時間に寝てしまったり、起きていたりするので、もう何が何だかわからないけれど、何とか生活は出来ている。勿論家事は手抜きだけれど。
また話が逸れた!
何故うつ病で良かったかと言うと。
何事にも興味を失ってきているので、自分が欲しいものも徐々に無くなってきた、という事。
本当に好きなアーティストのCDは買うけれど、それ以外はレンタルで済ますとか、メイクとかは元々していないし、サプリも一時期飲んでいたけれど、最低限必要なものしか今は飲んでいない。美容院もショートカットなのに4ヶ月も行かなかったり。服は近所で某有名ブランドのセールがある時しか服は買わない。ジーンズはユニクロで固定。しかし今は痩せてしまってウエストがブカブカになり、ベルトがないと落ちるし、家で履いているジャージもゆるゆるになって、歩いていると落ちてくる。でも別に何も困ってはいないし、家さえあればいいかな、ぐらいで生きている。
私の心は二度死んだ
うつ病で死にたいと思う(希死念慮)事はしょっちゅうあるが、目標が出来ると何故か俄然とやる気が出て、自分でもうつ病なのか?と思う程元気になる時がある。
それがガンを治療しようとした時。私のガンはかなり進行していたので、術前に抗がん剤治療を受けた。なので、その時はゴールが「手術をする」だった。それまで必死に病院に通って、髪が抜けてもコスプレ用のウィッグを被って元気にやってた。
やがて抗がん剤治療が終わり、手術も無事に終わり一週間入院した後、家に帰ってきたら完全なる「燃え尽き症候群」になっていた。
ゴールを過ぎた後の目標を何も立てて居なかったからだ。
あと半分は、ひょっとすると抗がん剤治療が上手く行かなくて手術が出来ないかも、とか手術が失敗して死ぬかも、とか色々保険のような愚かな考えがあったからかもしれない。
片方の胸は無くなったけれども、体は元気で食事も出来る。でも何をすれば良いのかわからない、という感じだった。むしろ治療中だった頃の方が元気だったと自分でもわかる程。
ここで一度心が死んだ。無事に手術が終わって悩みが減ったのに、心は空っぽになり、何も考えられなくなった。
「やっぱりうつ病よりも物理的な病気の方が治せるじゃない」と。
体はタフなのだ、でも脳はバグっている。そのちぐはぐさについていけなかった。
まぁ、それは暫くしてからひょんな事で飲食店でアルバイトを始めてから、自分が意外と動けると思えるようになるまで時間は掛かったけれど、それが自信にも繋がった。そして気持ちも強くなった。
抗がん剤も難なく終わり、手術も特に何も残る事は無く、片方の胸がえぐれたぐらいでどうって事ねーや。他に怖いモンなんて無い、と。
書いていて「本当に私はうつ病か?」とさえちょっと思えてきた。
二度目は母が亡くなった時。
母が居なければこの世なんてもうどうでもいいと思った。
私がバイトをしていなくてうつが酷かった頃、母は既に病気を患っていて苦しんでいた。
狭い家なので隣同士で寝ていた時に話していたのだけれど
「しんどくなったら二人で一緒に死のうか」という話さえしていた。
勿論、半分冗談だったが。
それから母が寝付いて約一年。
バイトを週に二回、忙しい時期は三回入り、その合間に家事を全部こなしていた。バイトが無い日に洗濯をして、食事を作り、バイトの時は父にコンビニ弁当を買ってきて二人で食べて貰うようにしていた。
ほぼ寝たきりになった頃、母の足が浮腫んでしまいスリッパを履くのも辛くなって裸足でトイレに行くようになった。その裸足で歩く場所とトイレの床を毎日拭いていた。トイレの床なんて今までスリッパを使っていたから考えたことも無かったけれど、家具や壁に手をついて歩く母の事を考え、触る所は何処もかしこも拭いた。
頭を洗いたいと言っても、お風呂に入れる状態じゃない時には、座椅子を風呂場の前まで持って行き、美容院のように仰向けに寝かせて頭も洗った。
髪が伸びればカットもした。最終的には濡らしたタオルで髪を拭いたりしていたけれど。
病院に入院していたのはたったの六日間。その間、面会時間ギリギリまで毎日病院に居た。バイトも休みを貰った。直ぐに鼻に呼吸器を付けられて、苦しそうに咳き込む姿を間近で見て、母の手を握りながら、もう既に意識の無い母にずっと話しかけ、心電図が一直線になり数字が0になる、最後の最期まで見届けた。
呆然として何も考えられない父の代わりに葬儀まで全部自分が行った。
通夜も私の友人一人が一緒に居てくれたけれど、次の日の葬儀に体力を回復させる為に父は返した。私は一晩、友人と酒を飲みながら母の側に居た。
その時にもう自分の人生はどうでも良くなった。
母の為に食事を考え、作り。
母の為に徹底的に掃除をし。
母の為に自分は元気なフリをし。
母の為だとどんな事でも辛くもしんどくもなかった。
私は母の事を一番愛していた。
母は私に精一杯の愛情を注いでくれた。
私はちゃんと返せたかな?と、まだもっと返したかったと思った。
母が居ない世界は暗いものだった。
母は我が家の太陽だったから。
その光が居なくなって、自分が生きている意味がわからなくなった。
私は母の為に生きていたのかも知れない。
それなら、母が居ないこの世に自分が生きている意味が無い。
母の支えになれるようにバイトも頑張って、家計を少しでも楽にしたいと思い、毎年母の故郷へ帰れるように貯金もしていた。
私の目標は全て「母の為」だった。
その母が居なくなったら?目標が無くなったら?
自分は何の為に生きるの?誰の為に頑張るの?
自分の事は好きじゃないから、頑張ろうなんて思えない。
そんな人間なら死んでしまえばいいと、思った。
それでもまだ父が居る
父は母よりも11歳年上で、今年の誕生日で85歳になる。
母は72歳で亡くなった。母の家系は皆短命で、大叔父の92歳が一番長寿だけれど、母の父は68歳で亡くなっている。
父の出生がちょっと複雑で、祖父は実の父ではないらしい。
そこはちょっと長くなるので割愛する。
元々お寺の生まれなので、粗食であり、戦時中に疎開をしたり、学生戦争の時代を生きてきて、若い頃には空手と剣道をやっていた人なので、今でも食べる事が一番で、生きる事に執着している。というか、宗教的にどれだけ辛くても人生を全うしなければいけないと思っている。
そんな父が、希死念慮を持つ娘の事なんて理解が出来る訳がない。
そもそも父はきっと私の事を殆ど知らない。
何を言えば喜ぶのか、怒るのか…私、と言うより他人にも関心が無い人。
そう言えば非情な人かも知れないが、それが元々の性格。
母と私は「発達障害」だと思っている。
そんな人の事なんて構いもしない父だけれど、私の家族はもう父しか居ない。そんな老いた父を憎んではいないが、今更別々に生きて行くつもりも無い。なんだかんだと毎日文句を言いながら、私が作った食事を「美味い美味い」と言いながら早食いする。
私は父の事も看取らなければならないと思っている。最後の一人しかいない家族だから。
死は誰にでも訪れる。
生に執着する者は死を意識しているから足掻くのだろう。
今の父を見ているとそう思える。
私はもう生にすら執着していない。執着する気力も無い。
そんなちぐはぐな父娘がこれからどう生きていくのだろうか。
なんて深くはもう考える気もしないけれど、自分がもし長生きしてしまったら…なんて思って、今必死にアルバイトに応募しまくっている。
今一番の心の拠り所は猫だ。
我儘で要求があると相手の目を見て喋るように鳴く。
構ってくれないとダンボールを噛み千切る。
走り回るし遊べと鳴くし、とにかく「私が一番!」な子。
真夜中こうして私がPCを前にしていると、途中で起きてきて、ずっと鳴く。
最近は膝の上に乗せて(自分からは絶対に乗らない)いると大人しくなり、ゴロゴロと喉を鳴らす。父には尻尾の手前を叩け、と目を見て鳴く。
相手が何をしていようと構わず鳴く。
あと3ヶ月ぐらいで2歳になるうちの猫。
この子に父も私も救われている。
この子との出会いは母が導いてくれたんじゃないかとも思う。
寂しくて殺風景になってしまった我が家に、新しく小さな命が明かりを灯してくれる。
私はきっと、父を見送った後もこの子と一緒に生きていくだろう。
生きて行くと言う事は意外と難しいけれど、心のわだかまりを少しずつ解いていけば、きっとそんなに難しくは無いのかもしれない。
こんな奴にでも小銭を投げつけていただければ幸いです。 頂いたお金は全て愛猫のご飯代、トイレの砂代になります。何卒宜しくお願い致します。