死刑囚の恋人 - 『異邦人』カミュ
カミュの「異邦人」を再読した。
そもそも死刑史上主義文学が大好きなわたしにとって、本書を避けて通ることは不可能だった。初めて読んだのは、ジュネやユゴーを読み始めた頃で、悲しみの概念を知らない主人公にわたしは激しく同情した。
(そう、我々は、自分の死さえも心の何処かで願っているのだからそれは当然のことだ。)
話が逸れた。死刑の美学について語るとさらに話が長くなるので、そういう話は省略。
今夜は、主人公の恋人マリイについてさらっと書く。
本題に入るとわたしは、マリイ、つまりこの" 殺人犯の恋人" 、が大好きだ。小説に出てくる女のなかで、一番好きかもしれない。
主人公は冷淡。 ”いうべきことがあまりないので” 口数は少ない。彼はおそらく悲しみを知らない。愛も知らない。彼にとって世界は俯瞰的に観察するものであり、そこに誰がいて、どのような感情が存在するかは、問題ではない。
自身の母親が死んだ翌日、 "私のせいではなく" 突如参加を義務付けられた通夜の疲労から解放された主人公は海へ泳ぎに行く。そこで彼は元同僚のマリイと再開し、関係を持つ。
わたしはここでマリイに惚れ込んでしまった。そう、彼女はそれでも良いのである。死の翌朝の浜辺でふたり。
マリイはまた、それを問題にしない。彼女は知っている。世界は自分を中心に回っていることを。それ以外のことは、彼女にとってはどうでも良いのだ。
わたしはというと、この女を愛したいとさえ思った。
主人公は殺人で逮捕される。
彼女は面会に来て「あなたが出たら、結婚しましょうね!」と言い、自分の仕事について語る。主人公は隣の青年に気を取られている。
裁判官がマリイを「その情婦」と言っても、主人公は腹を立てない。いずれにせよそんなこと、彼にも、マリイにも、どうでも良いことなのである。
主人公は死刑になる。
彼女は裁判で被告席にいる彼に、 ” やっとね、というかのように、小さな合図を” 送ってよこす。マリイにとって、そこにいるのはムルソーという名前の恋人であって、殺人犯でも死刑囚でもない。彼女の事実はそれだけなのだ。
ムルソーが死ねば、マリイは彼を忘れるだろう。母を亡くした翌日に彼が海で泳いでいたように、きっと彼女も浜へ行き、他の男と泳ぐのだろう。
わたしは惚れ惚れし、" 死刑囚の女" に憧れる。マリイのセリフを読み返しては、思いを馳せる。
自己中心的で美しく、文学的。
そう、彼女は強いのだ。
【ぐだぐだ余談】
小説に出てくる女、次に好きなのはゾラの短編『ナンタス』の妻。それとジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』の恋人も淡々と生きていて、良い。あとは伊坂小説の女も好き。(彼女たちは、男を「きみ」と呼ぶのでわたしは長年真似している。)
次いでだけどサルトルの「嘔吐」を読んでいる。帰国を挟んだのでだらだらペース。
アラン・ロブ=グリエ(代表作「去年マリエンバードで」)と、マルクス主義における文学分析で名高いリュシアン・ゴールドマンが口を揃えて ”フランス小説史上の傑作” と呼ぶ二作品、それがカミュの「異邦人」と、とサルトルの「嘔吐」らしい。その見解にわたしは震えるほど感動して、嬉しくなる。
これだから、読書は止められないのである。
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