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”自己分析”

たまたまこの動画を見た。

この動画内の相談者は忙しない日々の中で自分の時間も取れず、親からの支援を受けているのにも関わらず目標が叶わなかったらどうしようという不安から、孤独を感じる時間が多いとのこと。そしてその孤独とどう付き合っていけばいいのかわからないというのが悩みの主旨であった。
それに対し一郎さんは、
それは孤独ではなく”孤高”なんだ。でもその”孤高”の壁を超えたら誰とも比較する必要のない自分になれているよ。
タイミングが違うにしても誰だって同じように未来への不安からくる孤独感を感じることはある、でも”孤高”っていうのは自分の信念のために頑張っていることだからその経験というのは今後の軸となるよ。
みたいなメッセージを送っていた。
(あと、ライブ来てね。って言ってらっしゃった。これ大事)

この相談者の女性の境遇(PTとATのWライセンス取得に向けての日々)と似たような過去を僕自身過ごしていて、僕も彼女と同じ歳の時に同じような悩みを抱いていた。
だからこの動画を洗濯物を干しながら最後まで見ちゃったのだろう。
そんで、僕もその時尊敬する人から同じようなメッセージを受け取っていたから今こうして息をしている。
自分の過去(といっても2年前くらい)を振り返っている気がした。

これを踏まえてね。
このnoteで書きたいのは、オスカーワイルドがもう既に記してくれてるんだ。

You would be a banker, then you become one. You would be a lawyer, then you become one.
You would be someone else who is not yourself, you become one then it is finished.
On the other hand, you would be yourself who do not know where else you would go. You do not know where you would drift ashore.

'De Profundis' by Oscar Wilde

自分自身になりたい人はどこに行くのかわからない。
これを念頭に置いて、自分自身・他者と接して頂きたい。

大学生活を過ごしたことのある方は馴染みのある、
”自己分析”なるものがあるだろう。
あれはいったいなんだ?
饒舌に自分自身を語るためのプロセスなのか?
だとしたらそれをする目的はなんだ?

銀行員になりたいからそうするのか。
弁護士になりたいからそうするのか。
なるほど。わかった。
じゃあ、自分自身になりたい時もそれをすれば目的は果たせるのか?
そんなわけないだろ。
銀行員になりたかったら、”コスパ・タイパ”で試験勉強をすればいいのかもしれない。
しかし未だ見えざる自分自身という蜃気楼に手をかけたいと願う場合、それは”コスパ・タイパ”で攻略できるのか?
Googleというプラットフォームを使えば世界中の情報に触れることができる。そのため、「How to become ○○」と打てばより多くのソースに出会えるだろう。
ではこの世で1つしかないN=1のデータである君自身のなり方は検索すれば出てくるのか。

友人に誘われ居酒屋でワイワイする自分と、部屋で1人夜を過ごしている自分、
誰かに強烈な憧れを抱く自分と、誰かを冷笑する自分、
夜の営みをしている自分と、大切な人と一緒に映画を見ている自分、
その他数多ある瞬間の自分を統合して説明してくれる理論を君は持ち合わせているか。
持っていなくてもその瞬間の自分自身は確かに存在しているという直覚はあるだろう?
そんな掴みどころのない自分自身の一部を切り取って饒舌に語ることにどんな重みがあるのだろうか。
日々更新されていく自分自身を体感しているのに、死んだ自分の振る舞いをを語り継ぐことはそんなに大層なものだろうか。

しかしもし君が銀行員などになりたいと思っていて、それを達成するためにその営みをしなくちゃいけないとしよう。実際そういう現実だしな。
しかし問題はその営みを終えて無事銀行員になった後だろう。日々の業務に追われながら、「自分自身」を気にかける瞬間があるだろう。
至極当たり前だが、何かになったとしても「自分自身」にはなりえない。少し前までは銀行員である自分が「なりたい自分自身」だったのにも関わらず、いざなってみると別の顔をした「なりたい自分自身」が現れてくる。
こうなると鼬ごっこだ。

まぁここまでは誰しもが感覚として分からなくもない話だと思う。
しかしここからがワケわからないのだが、「自分自身」なんていうのは幻想に近いのかもしれないというものだ。
先ほど挙げたようにあらゆる文脈で自分の振る舞いは違ってくる。そうなると自分自身を統合する"語り"を見いだせないことに気付く。
僕の未熟かつ怠惰故にここでは歴史学的に「私」の成り立ちを説明することは省くが、「私」というのはそこまで古い概念ではない。
そして未だに「私」という感覚を過不足なく説明してくれる"語り"を人類は見出だせていないと感じる。
しかし山口一郎さんの動画の相談者のように、日々生きていれば、自分自身の感情の波を知覚するし、コントロール出来る代物ではないことに気付く。説明は出来ないがたしかに"ある"。
その深淵さと複雑さ、ある視点では単純なとでも言うのだろうか。それが「自分自身」なのだ。

加えて未だ起こってない事象を論理的に推論してしまう我々だからこそ、どうしようもない不安に襲われる。
ではそのような苦しみを味わっている人に君は、「いや自分自身なんて分かりっこないし、起こってもないことを考えてても意味ないっしょ。」
と言うのだろうか。
僕はそのような言葉を放つことを躊躇する。
なぜなら起こってもないことを経験していくのが人生だからだ。
予測できない瞬間に身を預けざるを得ないのが"生きる"ということだからだ。
加えて、意味というのは好都合なものだ。
それは過ぎた事象に対する重み付けなのだから。
僕はこのように考えるから、目の前の人には「一緒に頑張ろう。酸いも甘いも含めていつか語らおう。」という言葉を放つ。
その人自身の苦しみは理解できないからだ。
だが寄り添うことは出来るし、一緒に語ることは出来る。
それしか出来ないと言えばそうかもしれない。

一郎さんの"孤高"という言葉が示してることを僕なりに解釈すると、
自分自身になりたいという苦しみはその人にしか知覚できないし、共有できるものではない。だから周りに頼りたくなっても、結局は自分自身で乗り越える以外に選択肢はない。
でもそういう自分自身と向き合えている時間は深い意味で成長に繋がるし、これから先の人生の大きな土台となる。
でも辛いときはどうしてもあるから、1人で抱え込めないな、何か発散したいなと思ったら、サカナクションの音楽聞いて。
というようなニュアンスだろうか。

これはとても素晴らしいメッセージだし、とても優しい。
自分自身と向き合い続けるのは辛いがそれを行っている人は他人にたいして優しいし、うまく言葉に出来ない知性を感じる。個人的に。
自分が辛い時を過ごしていたときに心の支えになった尊敬する人はまさにそのような人であったし、その周りにいる方々も同様。
僕もそういう人になりたいと思った。


自分自身というのはよくわからない。
だからこそ、どうか自分の過去を饒舌に語るための"自己分析"にそこまで価値を置かないでくれたまえ。それ以上にもっと複雑で素敵な旅なんだ、「自分自身」っていうのは。
この事を僕は君に伝えたうえで、どうか君の語りを聞かせてくれ。


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