さぁ今日も張り切って嘘をつく。 街の大きい本屋さんのエッセイコーナーにはなんであんなに”面白い日常”が溢れているんだろうか。 時系列は違うにせよ、ここ数十年の間での日常であるというのは共通しているだろうに。 ”日常”が面白いのか、 ”日常”を面白くしてるのか。 どっちにしたってあのエリアには”面白い日常”が詰まっている。 あるコンペのためにエッセイを書こうとwordを開いた。 大して構想が決まっているわけでもなく。 とりあえず文字の大きさを10.5から18くらいに変えてみ
お先真っ暗。 お財布はカラカラ。 お腹減ったなとよぎっても満たされることなく明日。 「これよりもっと酷い境遇の中日々を送っていたドストエフスキーやフランクルとかに比べれば今の俺の生活なんて、」 と言い聞かせることも限界なのかもしれない。 何が限界なのか判然しないことによる憤りで人は死ぬのだと、小林秀雄が言っていた気がする。 どんなに高尚な理論を武装しても。 どんなに楽観的な空想を凝らしても。 一歩でも外に出てみないと生活は変わらない。 まぁ一歩程度では劇的に変わるわけでは
どうでもいいんだ、ほんとは。 自分が何をしていたって。ほんのちょっとウザがられるくらいだもの。 「お前は今何してるんだい?」 と聞いてきたとて、 それに僕が素直に答えようが、ちょっぴり格好を付けようが、 腹いっぱいにアルコールを詰めたいのが見え見えなのだから。 本当は僕が何をやっているかなんてどうでもいいんですよね? どうでもいいんだ、ほんと。 だから各々がのほほんと生きてさえいれば良いんだ。 本当に気になった事っていうのは焦らなくても心が踊ってしまうから、いくつもの認証プ
3年近く毎月投稿しているのだ。その”きせき”を途絶えたくないから書くという心意気を私は笑わない。 今から書くことはこんなところに書くほどのことでもないはずなんだ。 でもここは「こんなところに書くほどのことでもない」ものを饒舌に書いても誰にも文句を言われないというのが売りのプラットホームであるだろう。 だから書く。 死にそうだ。 いやてか、社会的には瀕死の状態であるというのも言い過ぎだということはないと思う。 金がない。 今までの人生、自分の懐が温かい瞬間などなかったが、今
君から見たら僕はどんなふうに映っているんだい。 ちゃんと不細工に映っているかい。 哀愁をぶら下げているように映っているかい。 細々しい華奢な肌肉には気づいているかい。 僕の内側の喧騒には気づけているかい。 僕は、君の前でうまく笑えているかい。 なんていう問いの矛先は僕のまえにいる君なんかじゃなく、僕自身であるということをここ2年ほどかけて理解した。 自分自身を他人に知ってもらおう、受け入れてもらおうなんていう陶酔をこの世の中で実現した奴はいるか。 いるとしたらそいつは他人の
お盆。 それは親戚に会うということ。 親戚に会うということ。 それは久しぶりの対面を果たすこと。 久しぶりの対面を果たすこと。 それはもはやテンプレートと化したご挨拶を頂き、与えること。 そんなお盆を今年も過ごした。 僕の過去のnoteでも触れているので別に遠慮しないが、2022年の年末に祖父が亡くなった。 祖父は長野県松本市生まれ。祖父の家系の親戚が松本で根を張っている。 そんな祖父のお墓は当然松本市に。 今年も祖母を連れ、母の運転で松本市に。 といっても祖父の家系は
安っぽい言葉が浮遊している街を歩いていると疲れてくる。 信じられないほどの暑さの中だろうか。 疑似相関というやつなのだろうか。 まぁ何がそうさせているのかということより、僕が今疲れているということを君にはわかってもらいたい。 元々疑うことしか取り柄の無かった僕だ、他人のことを理解できるなんていう幻想はこれっぽちも持ち合わせたことはない。 だがそんな僕でも、自分の話を誰かに聞いてもらいたいという思いが出てくるのだ。どうか嘲笑してくれ。その後にこの世に蔓延る主義主張の儚さに気づい
SDGsというのは大変高尚な概念であると思う。それゆえ大変便利である。SDGsにまつわるシンボルを口から吐いたり、ピカピカのバッジを胸元につければそれっぽいのだから。これにより、自らの”声”の市場を開拓する者も生み出され、1つの”えこのみー”を形成している。 この概念のポジティブな面を見つけるとすれば、「ひとりひとりの質的な価値を持つ『眼』と、”社会”の構成単位としての『目』は全く異なる」ということを遠回りで教えてくれることだろうな。 SDGsの具体的かつ抽象的な目標に触れ
「また明日」 って言って別れたい。 自分にも、あなたにも。 大きいくせに軽いランドセルを揺らしながら家に帰り、 玄関で靴を履き替えサッカーボールを手に取る。 錆が目立つチェーンにすら気づかずに自転車にまたがり、 みんなが待っている公園へ。 街中の”良い子”が家に帰っても、 サッカーボールを追いかけてた。 「おれのクラス、明日席替えなんだよ!」 そんな話に花を咲かせたあと、 「また明日な。」 と言って真っ暗闇の中自転車の小さいライトを頼りに解散する。 「学校だるいな。 て
いいじゃない。たまには。 いつもの帰り道から外れて遠回りしてみたり、 いいじゃない。たまには。 洗い物そっちのけでネットフリックスに依りかかって、 いいじゃない。たまには。 いいじゃない。たまには。 いいじゃない。たまには。 嘘くさいあいつと一晩明かしても、 いいじゃない。たまには。 朝ごはん抜きでビールを飲んでも、 いいじゃない。たまには。 いいじゃない。たまには。 来たる明日が祝日であり続けてほしい気持ちも、 起きたくない気力を保持し続けたいと思う気持ちも。
たまたまこの動画を見た。 この動画内の相談者は忙しない日々の中で自分の時間も取れず、親からの支援を受けているのにも関わらず目標が叶わなかったらどうしようという不安から、孤独を感じる時間が多いとのこと。そしてその孤独とどう付き合っていけばいいのかわからないというのが悩みの主旨であった。 それに対し一郎さんは、 それは孤独ではなく”孤高”なんだ。でもその”孤高”の壁を超えたら誰とも比較する必要のない自分になれているよ。 タイミングが違うにしても誰だって同じように未来への不安から
不細工、不恰好。 ”不”とつけて文字面だけでも理想を提示し続けたいのだろう。 しかしそこに確かに存在している事には変わらない。そいつを否定したとしてもあるんだから袂をわかって付き合っていかなきゃいけないのだ。 こりゃ見た目の話だけでもないような気がするね。 俗的にいわれる「こころ」「内面」という代物にもそういう付き合いをしていかなきゃいけない。 そりゃ醜いだろうよ。 どこまでも虚ろが故の飽くなき欲。 街にも他人にも風景にも。 とんでもない化物だね。 でもしょうがないね、
現在SpotifyにてPodcastを配信しているのだけれども、そのコンテンツをYouTubeにも投稿しようと準備を3日間かけてしていた。 けれどもPCのスペック足らずで動画の書き上げが全然うまくいかない。時間だけかかって結局何も得れず。 1つの動画をつくるのに1日以上時間をかけている。 こんな状態で平静を保っていられる訳はなく。 加えて初夏が鬱陶しいこのタイミング、 沸々とブツブツと動きが止まることなく。 そんな時間の流れの中で命を浪費しているんだけれど、 一体自分自身っ
しんしんと燃えて、灰になるまで。 暗がりの角を見つけて、隠すように。 群がって、偽って、身体は偽れなくて。 帰ってきたときには悲しい。 されどひとりで馬鹿騒ぎするほどでもない。 ただ、だけどかなしい。 藍色とはよくいったもので、青か赤か黄でしか見えないこの眼には少し難しすぎる。 心の声というのも難しいのは、誰だってそこまで聞きたいと思える声に出会てないから。 もっと難しい群集心理というやつは、誰かが大きな声で仮定を発しないと現れやしない。 もっともっと難しいあなたの行動って
この記事を書き始める20分前にプレミアム公開された、 WurtSの新曲「エヴォリューション」。 5月1日にアップロードされてるように、五月病を吹き飛ばしてくれるような楽曲になっている。 たった2分52秒のMVで僕の中の何が放たれることを欲したのか。 この楽曲にWurtSはどんな意図をもったのか。 そんなことをあぁでもない、こうでもないという構成で稚拙な文章を散らしていこうと思う。 と、その前に。あなたが本記事にどうやって辿り着いたのかはわからないが、1つここでお知らせしたい
どこでどんな事をしていても、隣の芝生は青く見えるものだ。 自分でない誰かを羨むことは別に大して突飛なことではない。 いつ何を手にしても、ないものねだりをしてしまうものだ。 自分が持っていないモノを求めることは別に奇天烈なことではない。 とは言いつつも、それらの感情が心をムズムズさせてくる事には変わらない。 そのもどかしさが気持ち悪い。 誰しもが感じることだろう。 最近改めて言葉について考えている。 まぁ古くからこの種の議論はされていて今それらを自分なりに伝っているのだが、