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どうしようもない

現在SpotifyにてPodcastを配信しているのだけれども、そのコンテンツをYouTubeにも投稿しようと準備を3日間かけてしていた。
けれどもPCのスペック足らずで動画の書き上げが全然うまくいかない。時間だけかかって結局何も得れず。
1つの動画をつくるのに1日以上時間をかけている。
こんな状態で平静を保っていられる訳はなく。
加えて初夏が鬱陶しいこのタイミング、
沸々とブツブツと動きが止まることなく。

そんな時間の流れの中で命を浪費しているんだけれど、
一体自分自身ってやつは何がしたいんだろうかという不毛な疑問が頭痛の種として立ち現れてくる。
「不毛だ!不毛だ!失せろ!」
と言えばいなくなる輩でもないというのが非常に煩わしい。
そんな彼を横目に目の前のことを淡々とこなしていくのが人生なのかもしれないと、多くの人は言うのだろう。

2つわからない。
「目の前のこと」っていうのはどこからきた?
「淡々と」っていうのは誰の視点だ?

女体から顔を出し、訳の分からない視線や音声を浴びながらここまで生きてきた。
その過程のなかでたしかに自分の目の前には「こと」があったと思う。
しかしその「こと」はどこからやってきて、どこに行ってしまったのだろうか。
そして今の自分の目の前にある「こと」はいつまでそこにあり続けるのだろうか。
昨日までのそいつは私の目の前にいなかったくせに、今日は目の前にいて、明日になったら別のヒトの目の前にいる。
そんな浮浪モノに私は何を固執してるのだろうか。
今までたくさんの浮浪モノに出会ってきたが、その中で私を魅了してきた奴はどのくらいいただろうか。3つ,4つくらいだろうか。
だが数少ない奴らも今は別のヒトの「こと」として機能している。
私の目の前にはいないというのは認識しているのに、いつからそうなったのかを思い出せないのは不思議だ。
だがその不思議な存在を長く固執するわたしという者もより一層不思議だ。

「淡々」としている状態を君は知っているか。
君自身が「淡々」であるというのを示すポーズはなんだ。
語義というのに甘えるのはあまり好かないが、この言葉にはものへのこだわりがなくあっさりしている様という意味があるそうだとか。
なんとも「あっさり」というのがつかめないが、まぁいい。
ものへのこだわりがない状態を「淡々」というのであるのか。
「こだわり」というのはちと厄介だな。
こいつは歴史だからだ。他人の歴史を知る術を私は持ち合わせていないんだ。
その「”こだわり”がない」なんじゃ余計厄介だ。
ちょっと私にはこの言葉は難しすぎるね。

どこからきていつ出ていったのかわからない「目の前のこと」。
そいつにこだわることなくという「淡々」とした状態で時間の流れに身を任せる。
こんな”あっさり”とした事を、不毛なあいつがうるさい中でやっていくんだろう?
そりゃ君たちのいう人生ってやつは難しいな。騒がしいな。

まぁ私は馬鹿者ではあるが君たちの言わんとしていることは理解できない訳ではない。
自身の一挙手一投足がすべて自分の理屈で片付く代物ではないしな、
いちいち立ち止まってあれやこれやとしている時間が不毛だというのだろう?
そりゃそうだ。不毛だ。不毛だ。
しかしなぁ。
その代物がどんなもんなのか考えてしまう心を君たちはどう説明するんだい。
立ち止まってしまう、見過ごせないなぁ、という精神を君たちはどういってくれるんだい?
流れはあるよ。
それは私がつくったもんじゃないからね。逆行はできない、結局は流されっちまう。
そういう自分を凌駕する現実があるからこそ、立ち止まって考えたくなるもんじゃないだろうかい。
そりゃわからんさ。
でもわかることを完了するのが出発点じゃないんだ、そうしたいというのが出発点だということを少しは理解してもらいたいね。

「あんた、そんなこと考えてたってしょうがないでしょ。
さっさと家を出て働いてきてちょうだい」
そう言われたら「へいへい」と言いながらのんびり散歩でもしないといけない。
結局流れっちまうんだ、少しは寄り道くらいさせておくれよ。
それを君たちは「どうしようもない」と糾弾するんであるのなら、
ほんと、どうしようもないなぁ。

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