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だせい

不細工、不恰好。
”不”とつけて文字面だけでも理想を提示し続けたいのだろう。
しかしそこに確かに存在している事には変わらない。そいつを否定したとしてもあるんだから袂をわかって付き合っていかなきゃいけないのだ。

こりゃ見た目の話だけでもないような気がするね。
俗的にいわれる「こころ」「内面」という代物にもそういう付き合いをしていかなきゃいけない。

そりゃ醜いだろうよ。
どこまでも虚ろが故の飽くなき欲。
街にも他人にも風景にも。
とんでもない化物だね。

でもしょうがないね、化物の皮をファッショナブルに着替えたって化物なんだもの。
こりゃ鏡の前に立ったことのある者なら勘づいているはずだ。
否定するのは自由さ。それも簡単さ。
一文字置いてやるだけだからね。
しかしあまりにも簡単すぎるなとも思うね。
目に映るもの全てを否定することが、耳を塞ぐようにすぐ出来ちゃう。
「あいつはダサいな。」
なんて言葉は欠伸と共に出せる。
「自分が憎い」
なんてのもあっちゅうまに出来ちゃうよ。
こりゃもうある種の習慣がなせる芸当だよ。

そうやって否定し続けた先に楽園があるんならまぁいいんだけども、
そこに辿り着いた奴は死んじまってるからなぁ。
声をかけようにも手段がないんじゃしょうがないね。

化物が言葉を発するとき、
化物が歌をうたうとき、
化物が愛を求めるとき、
踏みしめた大地は死んでいく。近くの空気も臭くなる。
それはそれは遠くから見ていると醜いものだね。
何処に向かってるんだか、何をこの地球の中でしでかしたいんだか全くもって解らない。
一番厄介なのが化物の周りの流れは遮断されるのに化物は流れるように動き続けるところだな。

しかしだ。醜いったらありゃしない化物も一生懸命生きているんだろうよ。
そう考えるとだな、
いつ遮断されるかわからない、何処に辿り着くのかわからない中でさまよっているそいつは不細工かね。不恰好かね。ダサいかね。

そんな何でもかんでも否定するよりも、
不細工な、不恰好な、ダセェ、
惰性なその命の流れを認識することの方が楽しくないだろうか。



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