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WurtS 「エヴォリューション」

この記事を書き始める20分前にプレミアム公開された、
WurtSの新曲「エヴォリューション」。
5月1日にアップロードされてるように、五月病を吹き飛ばしてくれるような楽曲になっている。
たった2分52秒のMVで僕の中の何が放たれることを欲したのか。
この楽曲にWurtSはどんな意図をもったのか。
そんなことをあぁでもない、こうでもないという構成で稚拙な文章を散らしていこうと思う。


と、その前に。

あなたが本記事にどうやって辿り着いたのかはわからないが、1つここでお知らせしたいことがある。

2年前の5月。こんな記事を投稿した。

実はこの記事、「WurtS ふたり計画」と検索したらかなり上の方に表示される。
「ふたり計画 考察」と検索したらトップに出てくる。加えて、トップ記事の下に様々な項目が表示されているのが見つかると思うが、
「ふたり計画の意味は?」という項目をタップしてみると、僕のこの記事が表示される。

正直にいおう。
実は僕はSEOライターやブログ管理&運営のお仕事の経歴があるが、
この記事は全く持って狙っていないし、SEO対策などしていない。
自分の誕生日にアップロードされて、しかもかなりグサッとくるMVと楽曲だったが故に衝動的に書いただけの記事だ。
そんな記事が今ではこの底辺アカウントのアーカイブの中で一番View数を稼いでいる。4200View越えだ。
しかも2年経った今でも毎週20Viewほど見られているのでずっと右肩上がりだ。

僕の本音としては、WurtSさんならびに熱狂的なWurtSファンの方に申し訳ないと思っている。
僕の拙い記事のせいで、TokyoFMの川上さんとの記事よりも上に表示されてしまっているし、
加えて僕の記事はWurtSさんの意図を全く持って反映していないただの一般男性のつぶやきなのだから。
それに僕の記事の公開後すこし経って、WurtSのXのポストで「ふたり計画の意味」についての投稿があった。
ただ当時まだTwitterであったためか、遡ってみたがその投稿を確認できなかった。
ふたり計画は2人で立てた旅行のことという設定だったのこと。

こんな出鱈目な散文にこれほどのViewがつくことで後ろめたさを感じるのと同時に、Googleの検索エンジンというものの出鱈目さも反証できたのではないかとも思う。
アテンションエコノミーというのは恐ろしいものだ。自分の追い求めたいものを隠してしまう。

というようなお詫びを入れておきつつ、
今回も出鱈目かつ稚拙な文章をまき散らすという難解な記事にはなるが、自分が書きたいと思った時にかけるのがnoteの特徴。
もしあなたがGoogle経由で本記事に辿り着いたのであれば、本当に申し訳ないと思う。

お家芸の進行+タテゆれ

WurtSの楽曲は平均して3分程度のものが多い。
疾走感のあるバンドサウンドを売りとしているからか、何か意図があってそうなっているのかはわからない。
WurtSの楽曲は、Bメロのサビへの助走感が効いている。
それにBメロの歌詞は1番・2番と共に変わらないパターンが多い。
サビの歌詞も同様。
WurtSの楽曲が単体で世界観を構築できているのは、このメロディ進行のパターンによるものなのかもしれない。
僕は音楽理論を勉強しているわけでもない、ただのド素人な身分。
どうか細かい話を突き付けてマウントを取ってくることだけはよしてくれないだろうか。なんなら教えてくれ。

もう1つメロディ進行で今回気になったのが、「SF東京」でも見受けられる、ラスサビ前の間奏。
もちろんバンド演奏においてあたりまえなのかもしれないが、WurtSの最近の楽曲ではこのラスサビ前の間奏が顕著に目立つ。
Liveなどの演奏を意識してなのだろうか。

そのお家芸に加えて、今回の「エヴォリューション」はMVの影響だろうか、タテゆれの要素を強く感じた。
タテゆれという表現が合っているのかはわからないが、思わず首を縦にゆらしてしまった。
特にサビの徐々に音階を上がっていくようなメロディ。
「エヴォリューション」というタイトルや歌詞からもある通り、何か湧き上がっていくような雰囲気を感じる。
あと全体を通してオートチューンによるエフェクトも相まって、
グルーヴというのだろうか、
とてもタテゆれ感を感じた。
この感じが歌詞と合わせてこの楽曲を考察していくと大事な要素になると思う。

歌詞から膨らむ「エヴォリューション」

僕は様々なジャンルの音楽を聴くのが好きではあるが、それら1つ1つのサウンドを理論立てて整理している訳ではない。かなりミーハーに音楽を嗜んでいる。
そのため何か1つの楽曲を考察する際の足掛かりになるのが、歌詞となる。

だがここでひとつ。
楽曲も然り、芸術作品にあたるものを鑑賞することと批評することは別の営みであることを留意したい。
鑑賞というのは生身の体験である。
批評というのはあまりにも分析的すぎるし、観念的である。
観念的であるゆえに本来遠くに位置する概念を持ってきてしまいがちになる。そうすると本末転倒。
目の前の作品という対象とはまた別の観念の粘土が出来上がってしまう。
その粘土がいかに作品と接合性があるのかが批評を楽しむ要素ではあるものの、自分の外へそれを発信する際は作品そのものとの接合性よりも自分自身の観念を膨らませることに注力するようなことはあってはならない。

なので、ここから僕が練っていく粘土はなるべく今回の対象である
WurtSの「エヴォリューション」との接合性を意識しているというのを始めに言いつつ、当たり前の話ではあるWurtSの「エヴォリューション」の世界観そのものを表現している訳でないというのをぜひ押さえておいてもらいたい。

”エヴォリューション”

「エヴォリューション」。
Evolutionというのは、進化・発展というような意味がある。
語源であるラテン語のēvolvō
は”巻く””離れる”という単語がくっつき、”広がる”という意味があるそうで。この単語が名詞化されたのがEvolutionだそう。
コアイメージとしては「巻かれたものを広げる」。
参考:https://english-battle.com/word/evolution#source-2363

このEvolutionという単語のコアイメージから、化学の文脈では「放出・発生」という意味があるそう。

進化・発展。
放出。
この2つの意味が特に今回の楽曲で中心となる意訳になる。

Aメロ

ここで1番のAメロの歌詞を参照してみる。


息もできない
凍りついた空気
日没の静けさを
通り過ぎた蒸気
また始まる
実際、中身はない

”凍り付いた”空気と、通り過ぎた”蒸気”という対比。
蒸気というのは固体または液体が気化(=蒸発)した状態であり、
この対比では温度のグラデーションを表している。
また
「日没の静けさ」「また始まる」というところが、1日の流れを表している。
”温度が0度に近い夜を超えて、陽の光によって温まっていくように1日が始まり、それが繰り返される日々”を過ごしているが、
「実際、中身はない」という。

1日の繰り返しともとれるが別の意味も付け足せる。
物体の運動によって熱は産生されるが、夜は多くの人が動いているわけではないから孤独で凍える夜を過ごすしかない。そんな時にヒトは裸の自分と向き合う。
しかし日が昇り、多くの人が動き出せば街は温かくなる。
自分ひとりの凍えるような孤独は街の温かさで補えるが、結局孤独が待ってる。そんな自分の孤独に対する対処療法しかできない日々の繰り返しに中身などあるのだろうか。という風にも解釈できる。


続いて2番のAメロを見ていく。

先も読めない
停滞をした空気
曲がり角の先
気の抜けた蒸気
また始まる 実際、面白くない

”停滞をした”空気と、”気の抜けた”蒸気という対比。
Aメロで対比されている「空気」と「蒸気」とはまた違ったニュアンスを持つ。
「先も読めない 停滞をした空気」というのは、自分自身というより自分の外の世界の空気感についてだろう。”これをやっていれば安定です”という幻想など消えて久しい社会を描写していると読んだ。
「曲がり角の先 気の抜けた蒸気」というのは、そんな停滞した空気も別の道に行けば晴れるだろうという希望を抱いて進んでも、そこには何に向かって動いているのかわからない群衆から発せられている蒸気しかないというのを描いているのかもしれない。
そんな憂鬱な社会が今日もまた始まる。
そんなの面白くもなんともないだろ。
という風に解釈した。


この楽曲のAメロからWurtSの強いメッセージ性を感じた。
そしてこのAメロからBメロに続き、サビに入るのだ。

Bメロ

Bメロを覗いてみよう。

×○×間違いを用意して
且つ○を足す
何かを捨てた気がして
分かり合えない 孤独のジレンマに
助け舟はない ギリギリのサバイバルで

「×○×間違いを用意して  且つ○を足す 何かを捨てた気がして」
私たちの国の義務教育における評価というのは、一問一答形式が主軸である。
義務教育のみであるなら、地獄の日々を乗り越えればいい話ではあるが、
その助長が社会に出ても蔓延っているのは感覚的に理解できる人が多いのではないだろうか。
だが少し冷静になって考えてみてほしい。僕がnoteの記事でよく言っているが、
一問一答形式のように目の前の世界は単純に構成されているだろうか。
経済、政治、友人関係。僕たちが抱える悩みは一問一答で解決できるのだろうか。
キャッチーなジャンルとして「恋愛」を考えてみてくれ。
自分がある相手を好きだなと思った瞬間、パートナー関係が成立するだろうか。この世の中のどこかでは過去に男性がお金を払えば対象の女性と結婚できるという仕組みがあったそうだが、
そもそも「恋愛」というのはパートナー関係を結ぶことを指すのだろうか。四角形状の電子機器の中に表示されている変数で取捨選択できるほど、目の前の”その人”は単純なのだろうか。
実際に会ってもない”その人”をスクロールしていくことが「恋愛」に寄与するのだろうか。

社会のあらゆるところで、単純な数式・演算で”その人”を評定する傾向を強く感じてしまうのは僕だけだろうか。
”何かを捨てた気”がしないだろうか。

「分かり合えない 孤独のジレンマに
助け舟はない ギリギリのサバイバルで」
自分の嗜好や考えなどが一問一答形式でないことは感覚的に理解できるのに、なぜ他人のことは一問一答形式で分かった気になれるのか。
自分と他者が”分かり合う”というのはどういう状態なのだろうか。
もしや”分かり合えない”のではないだろうか。
「その先には孤独、でもその孤独は他者で補えば、、、
いや”分かり合えない”としたら、常に孤独ではないか?」
というジレンマに、”助け舟”なんてあるのだろうか。
常に孤独と向き合うというような精神状態は崖っぷちそのものではないか。

そしていよいよサビに入る。

”放て”

サビを見ていく。

夢を見る僕らは願う 集え、叫べ、“No More!”
It’s エヴォリューション
明日は近い、探せ 僕らの答えは一つだ
It’s エヴォリューション

今回の楽曲は、サビのメロディからメッセージを届けに来ている気がする。
徐々に音階を上がっていくようなメロディ。
それと歌詞が相乗するからこそ、そしてタテゆれのグルーヴも相まって、
二度と訪れない人生の発展をみんなと集まって叫びたくなるような感覚に陥る。

「夢を見る僕らは願う」
「探せ 僕らの答えは一つだ」
Aメロ・Bメロでは自分の孤独や憂鬱な社会を描写し、そんな中でも”夢”を持ってみんなで集まり、僕らの答え(≒発展・進化)を探していこうというメッセージを”放つ”。

これはニヒリズムに対するニーチェの哲学である「超人」の発想に近い。
「Also sprach Zarathustra」で展開されているように、時には自問自答し、時には詩をうたう、そして他者との対話をする。
このような行動の”繰り返し”を通して階段を上がっていく。

そして、タイトルでありメッセージである「エヴォリューション」。
Aメロでの空気や蒸気、サビでの叫べという歌詞から連想するように、”放出”という意訳がハマる。
もちろん、孤独や憂鬱な社会が現実としてある中でも進化・発展していくんだというメッセージもこもっているはず。
しかし僕はそれ以上に、”放出”というメッセージを強く感じた。

WurtSはおそらく僕と同い年。
21世紀生まれのアーティストというプロフィールに加えて、昨年度に大学を卒業というのを踏まえてそう考えても妥当だろう。
そして、今年度から21世紀最初の少年少女らの多くは新たな社会の接点を持ち始めた。
最近顕著にネットやマスコミ上では円安の問題や政権与党の問題などを皮切りに「日本の停滞」を嘆いている。
失われた30年 だったか?
そのような停滞ぶりを煽り、出稼ぎ労働者を特集するものの、今世紀稀に見るスキャンダルをBBCの介入がなきゃ報道しないというメディアの惨状たるや非常に哀れなり。

しかし、そのような現実をどこに帰属しようとしたところで僕たちの生活は続いていくわけだし、あたりまえだけど世界は動いていく。
そんな中でただ憂鬱な感情を晒し続けることは稚拙ではないだろうか。
もちろんそのような感情を否定しているのではない。僕もそのような感情に引っ張られることの方が1日の時間の大半を占めている。
そのような感情を惹起する構造が現にあるというのも認識している。
しかしそれを認識している事と、その認識に身を溶かす事とは非なるものであることは理解に易いだろう。
憂鬱な感情に巻かれている構造を認識できるのであれば、その巻物を広げよう。
そのような能動的な動きを一生懸命に1日の中でしていこう。そのような繰り返しを意識して生きよう。
そういう気概を憂鬱な社会の中で”放って”いこう。
その営みが僕たちの”エヴォリューション”なのではないだろうか。

見せ掛けの自分 「いや本物は僕だけだ」
This is Re エヴォリューション

憂鬱な構造によって巻かれて作られた”見せ掛けの自分”から、
本物の自分に。
広げていく。

今回のWurtSの新曲、「エヴォリューション」からそう感じた。

このような壮大な観念の粘土を練ってみたが、あなたはどんな粘土を練ってみただろうか。


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