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少女漫画家に憧れていたら、いつの間にか少年漫画でデビューし、気付いたら成人向け漫画で単行本を出していた話。

漫画は物心ついた時からめくっていましたが、漫画家を職業として意識したのは小学1年生の時です。

クラスの女の子のひとりが『ちゃお』の読者で、付録のペーパーバッグ(紙袋)を学校に持ってきているのを見て興味を持ちました。スーパーでたまたま同じ付録がはさまれている雑誌を見つけ、「これか」と思い、母に買ってほしいと頼んだのが、なんだかんだで最初のきっかけとなります。             

家に帰って輪ゴムを丁寧に外しつつめくっていくと、とにかく画面が華やいでいるので、当時それなりに乙女であった私は夢中になって一枚一枚読み進めていきました。

そして漫画賞のページに行き着いて、その時丁度銀賞を獲ってデビューが決まった人がいたんですね。

『原稿を描いて内容を認められれば雑誌に載れる』というのは、当時の私にとってはすごく衝撃的な話で、

変な話ですが、私はどんな職業にもマニュアル的な就職試験があると思っていたんです。

年の離れた兄が2人いて、私が5歳の時に長男が高校受験に臨んでいたのを見ていたせいかもしれません。全て勉強の成績で決まる、みたいな観念ができていたのかもわかりません。自分のポンコツっぷりを自覚していた私は、その頃からすでに大人になるのが怖くなっていたので、たぶんそれが理由です。周りの同級生はなんだかんだで世の中をスルスルと渡り歩いていけそうで、おいてけぼりを食らう気がしていました。そしてその予感は概ね的中します

結局、私は小学校6年間を少女漫画の乱読で過ごす事になりますが(途中で『ドラゴンボール』の完全版が図書室にやって来たのがきっかけで少年漫画にも足を突っ込みます)、その最たる理由は「漫画を読んでいる間は絶対的に独りの時間にのめりこめたから」

成長とともに周囲で顕著になっていったのが、好きなアーティストについて語る事と前日に観たテレビ番組について語る事、それでもって仲間意識を強固にする事でしたが、アーティストに特別な興味を持たず、遅くまで起きていられない私は、前日皆が観ていたドラマなど観ていないので、およそ時流に乗る才能は欠落していました。今もそうです。

中学に上がれば早いコは美容に気を遣いだし、誰と誰が付き合い出したのと話題のカテゴリが増えていき、果ては所属するチームの明確な線引きみたいなものが加速していきました。

加速について行けない私は、静かに衰弱を開始させつつ脳内会議室に籠るようになりましたが、

それでも、私が完全に孤立しなかったのは「描いていた側の人間」だったからじゃないかと思っています。

絵は、誰からも教わらないうちから描いていたようです。母親曰く、ハサミに至っては2歳の時、教えた覚えもないのにチラシを渦巻き状に切りまくってバネを大量生産していたらしく、小学校ではその多少の器用さに目をつけた担任の策略によって図画コンクールで大量に賞状を貰いました。心配した親からは「褒められたら驕らずにお礼だけ言っておけ」と釘を刺されていましたが、朝会でステージに上がって校長から賞状を受け取るのは、実際愉快でしょうがありませんでした(屑)

それと、小4から小6まで自分のクラスメイトを二頭身のキャラにデフォルメしてギャグ漫画にしたりしていたので、休み時間になるとクラスメイトが読みに来るんですね。「早く続き描いて!」と。これがまた愉しくて10~18Pストックが貯まるとホチキスで留めて何冊も単行本(自称)を作っていたのですが、何を思ったかコイツは23巻まで描き続けやがります

だからもう「絵が得意だから」「皆に褒められたから」というよりも、生存戦略として漫画家を目指すようになったとしか今では思えません。自分は漫画を描かなきゃ生きていけないと思っていたし、逆に言えば漫画の描けない自分に存在する意味なんてないと考えていました。

そして「漫画家」という現実味を帯びない職業は、進学するにつれて肩身の狭いものになっていきます。高校生になって皆が大学を選び始める頃、私は既に仙台のデザイン系専門学校の志望を決めていましたが、内心穏やかではありませんでした。

実績がなかったからです。

小、中学校でいくらコンクールの表彰を受けようが出版社に原稿を送って評価された実績はないのです。

ちなみに私は漫画家を目指していることを公言していました。

小4の時につけペンやトーンを初めて買ってもらい、「何事も早い方が良いだろう」と練習して、小5で『ちゃお』に初投稿しました。特に結果が出なかった事もあって、一旦漫画賞には飽きます(早)

中学に上がってからは美術部の顧問の影響で『公募ガイド』の購読にハマり、そこで見つけた文芸社主催のイラストコンテストに応募して小さい賞に引っかかったりもしましたが、自費出版を断ってからは特別「その後」にはつながりませんでした。(100万円かけてまで出版するほどのものじゃない事は確かだった。あとそんなお金はなかった。)

高校に上がった時にはもう完全に意識が少年漫画の方に移行していたので、何度か集英社の少年誌や青年誌に応募しましたが、それも全くかすらず。「このまま目指したところで本当に漫画家になれるのだろうか」と段々苦しくなっていったのです。

実績がほしい、と。

高2の終わり頃には、その妙なプレッシャーに疲れ、得体の知れない無力感に襲われ出します。そして高3の初め、私は講談社のとある少年誌の月例賞に初めて引っかかりましたが、間もなく喉の閉塞感と呼吸困難に悩まされる事になります。

病院からはパニック障害と診断され、私は3ヶ月間寝込む事になりました。

この頃の事はとにかく呼吸が出来ず、水も飲めない状況で毎日泣いていた事以外あまり覚えていません(記録的猛暑の年だったので脱水症状で数回死にかけ、川の向こう側にいる知らないおばさんに追い返されるという貴重な体験をしました。ホントに)。ただ夏休み明けから早退と保健室登校を繰り返しつつ、なんとか単位ギリギリで卒業に漕ぎ着けましたが、卒業後、成績表を眺めていた母によって、先生が点数を誤魔化してくれていた事が判明しました

文字通り『高校卒業』だけを目標にしていた私は進学も就職もしませんでしたが、卒業直前からコツコツ描いていた漫画をスクウェア・エニックスに応募し、その作品で担当付きになった後、翌年19歳でデビューします。専門学校に進学する路が消えたので「だったら専門生より先に一発決めてやる」と、モチベーションを高く保っていたせいかは分かりませんが、滑り出しは思いのほか順調でした。

webに1回、本誌に2回読み切りが掲載され、アンケートの結果がそこそこ良かったので、短期集中連載の権利をいただきます。

ただそこからは全く身を結ばなかった。

提出とボツを2年間繰り返し、運良く1話目のネームにOKが出ても、今度は2話目でつまづいてしまった。理由としては「読んでもらうための話の繋げ方が全く身に付いていなかったから」

私がお世話になっていたのは月刊誌だったので、連載となれば一ヶ月間、作品に対する興味を持続させる必要がありました。私の描く話はその持続作用において、どうにも乏しいという事を指摘されたのを覚えています。

そこまで聞いて、ふと我に返った。

そもそも、

毎月まとまったページ数の原稿を提出する体力なんて、この時点でパニック発作の後遺症(心肺機能の異常な疲れ)に悩んでいた私にはなかったのである。なのにどうして出来もしない連載の準備なんかしているんだろう。そう思った瞬間、

急に身体がしぼんでいって起き上がれなくなった。

張り詰めていた糸が切れて、

私は再び寝込む事になってしまった。

パニック発作の再発だった。

ここまで来るともう、私を虚弱に産んだ親を不当に恨みそうになった。

実際、「何で私の事もっと丈夫に産んでくんなかったの」と憎まれ口を叩いたりもした。ただそういった事を言うと大概ウチの母親は「でもあなたが一番乗りだったのよ」と暖簾に腕押しの返事をよこしてくるので会話が成立しない。違う。違うんだ。親父の精子の到達時間の話をしたいんじゃないんだこっちは。

なんかもう色々嫌になった。

最終的に40~60Pのネームを3回ボツにされた後、私はスクエニの担当さんに「一旦離脱したい」と連絡を入れ、その後の予定は完全に未定となった。22歳の2月の事でした。

空っぽになった。

前述の通り、漫画の描けない自分に存在する意味なんてないと思っていた事もあって、私は漫画で成功する事以外に神経を割いてこなかった。この時は本当に、自分はこの20数年間、何も身に付けてこなかった未熟極まりない人間に思えて仕方ありませんでした

ただそれでも、

周りの同年代が大学を卒業して就職しようと、それはおよそ私とは無縁の世界の話でしかないのであって、とにかく手近なところから自分に出来る事を探して、始めなければならない。

そう思って、ある程度体調が回復したタイミングで、私は先延ばしにしていた自動車教習に通いながら、成人向け漫画を描く事を決意します。

「連載が無理なら単話で出来る場所に行こう」と安直な理由で思ったのでした。一応話しておくと、スクエニの担当さんにラブコメ系のネームを提出した際、「もうちょっとエロく」とリテイクを出されて試行錯誤した結果、「エロ過ぎる」と言われてボツになり、恥ずかしさのあまり電話越しに大号泣した経験が私にはありました。

もしかしたらエロ漫画の方が向いているんじゃないか?           

そう頭をよぎった瞬間でもありました。

だからこの際、やれるだけやってみる事にしたのです。だって予定がないんだもの。

どんなに挫折しても結局私は漫画を描く事そのものを手放せなかった。

投稿先を『ポプリクラブ』にしたのは、以前何気なく購入していたemilyさんの単行本(R-18)の『あとがき』に漫画賞についての記述があったのが頭に残っていたからで、本全体を読んで何となく、この編集部は優しそうだと思ったのを記憶している。

午前に自動車学校に通い、帰宅した午後にエロ漫画を描くという奇妙な生活は、意外にも充実する事となります。液晶タブレットでの作画はこの時が初めてだったので「本当にこれで大丈夫なのか」と何度も自問自答した。自動車学校は閑散期な事もあっておよそヤンキーばかりでしたが、軽口を交わす程度に仲良くなれた人もいたおかげか、苦痛なく通う事が出来た。(ちなみに乗車中はなぜかリラックスしていてパニック発作とは無縁だった。本当はダメなんだろうけど。)教官に至っては下ネタが常用語の人もいれば、運転中ハザードランプをやたら押してきて運転妨害してくる人なんかもいたものだから、まるで退屈しなかった。

そして6月。翌日に卒業検定を控えた私の元に一本の電話が入った。      

原稿を送った先の、ポプリクラブの編集部からだった。

「このまま単行本を出せるようになるまで作品を描きませんか」

その日、私は23歳になった。

そういえばスクエニの担当さんと初めて電話で打ち合わせしたのも誕生日だったな、とか思い出しながら。

…、

なんというか…

こういう状況において私は凄く運が良かった。

このタイミングで電話がかかって来たという事は、免許取得と同時に次のネームに集中して取り掛かれるという事だ。

そして実際その通りにもなった。

翌々日、私は運転免許を取得し、次の話のキャラデザとプロットを書き始めた。

それと並行して、身辺整理も行なった。

具体的には自分の身の回りにあるストレスの種を徹底除去していきました。

ろくに手入れも出来ない長い髪は、肩を凝らせるだけなのでショートにし、髪を染めるのもやめ、

睡眠は7時間キッチリ取るようにし、部屋を逐一掃除して、常に気分良くいられるよう整えました。小さなストレスの蓄積が、いつだって私の体調を崩すための必須項目だったからです

もう失敗したくなくて必死でした。エロ漫画を描き始めた結果、生活が改善されたってのも変な話ではありますが。

そんな感じで不定期ではあるものの、原稿料をいただくようになってからは体調が安定していき、徐々に自信を取り戻していきました。

「あ、私の漫画って、お金を貰ってもいいものなんだ」と思えるようになり、それと比例してパニック障害の後遺症も大人しくなっていきました。

その最たる証拠としては、昨年5月にお台場で懇親会が行なわれたのですが、1人では一度も乗った事のない新幹線に乗って東京に行けました。しかもネットが苦手なのに一生使う事なんてないと思っていた「じゃ〇ん」でビジネスホテルまで予約して(担当さんに「その方が得だから」と言われた)。ただでさえ方向音痴でひどい緊張もあったのに、呼吸が苦しくなる事はありませんでした。

そんなワケで成人向け漫画を描き始めて丸3年です。

『ポプリクラブ』の休刊により奇しくも私は最後の漫画賞受賞者となり、雑誌の異動など紆余曲折ありましたが、昨年、単行本作業を終えたあたりで自分の中にようやく「核」みたいなものが芽生えました。

いざ完成した単行本が初めて手元に届いた時も、「感動」や「嬉しい」といった感覚以上に「ああ、出るのか」という静かな気持ちの方が先行していて、冷めているようですが、要は、ひとつ目標を達成して安心したんだと思います。

ついでに言うと、この仕事は自分の質(たち)や性(さが)や癖(へき)なんかを嫌でも内観させられるので、作業自体が瞑想になっている時もあったりするのですが、そんなメリットを抜きにしても、根本的に私はリミッターが外れた女の子を描くのが好きなようです。

だから当分の目標は「安定しながらより良いものを描き続ける事」、それに尽きます。

ちなみにスクエニの担当さんは、私が成人向けで活動している事など全く想像もしていなかったので、「その後どうですか?」と近況を求めるメールをいただいた時に事情をお伝えしたところ、本当に驚いていました。

今年の1月に仙台でお会いし、数時間に亘ってひたすらお互いの話をぶつけ合いましたが、こうやってローカル線に1時間揺られて仙台に行けるようになったのも、先に東京に行けた事実があったから叶ったんだよなあとしみじみ思います。

いずれ作品でもってご恩返しが出来ればいいなと思っていますが、ところでよくよく考えてみると「何も描いていない私」の担当をこの人はよく続けているなって事が頭をよぎります。

だから冷静になって考えれば、拾ってくれた人にも、待っていてくれた人にも恵まれていました。

何も言わずに回復を待ってくれた親も、点数を誤魔化して送り出した先生も、折に触れて連絡をくれる友人もいました。

その事を常に頭に置いておこうと思ってはいるのですが、明日何らかの事情で記憶を失う羽目になったら最悪なので、ネットの海に放り込んでおきます

今年も懇親会に参加してきました。

普段は会う事のない作家さんやデザイナーさんと沢山お話しできて凄く楽しかったんですが、宿泊したホテルの壁が薄かったせいか眠りが浅く、帰りの新幹線アナウンスを「じゃがりこ57号盛岡行き」と聞き間違えて慌てて電光掲示板を確認する程度には睡魔が限界を迎えていました。(やまびこ57号です。)無事に昨日、宮城に帰還しました。

なけなしの体力で東京を楽しめた自分を一先ず褒めてやろうと思います。

皆さんもどうか身体には気を付けてください。

以上、名仁川るいでした。

私は寝ます。


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