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祖母のこと

私が幼稚園の時に優しかった母方の祖母が亡くなりました。

当時、すでに父方の祖父母は亡くなり、血のつながった祖父母は母方の祖父だけが健在でした。母方の実祖母は母が生まれた後に亡くなり、祖父は再婚したので、私が幼稚園の時に亡くなった祖母は母とも直接血はつながっていないのですが、私にとっては間違いなく優しい祖母でした。

私が住んでいた家から、埼玉県行田市の祖父母に家までは車でおよそ一時間の道のりです。

私が幼稚園の頃、母が車の免許を取ったので、それからは祖父母の家までは母の運転で行くことが多くなりましたが、それまでは、東武東上線で東松山駅まで行き、そこからバスに乗り換えて鴻巣駅まで、さらにバスを乗り換えて行田までという行き方でした。

バスにはまだ車掌さんが乗っていて、バス停の案内や切符を切ってくれました。ボンネットタイプのバスが、田舎の砂利道を埃を立てながら走っていました。

小学生の兄と二人だけで、電車とバスを乗り継いで祖父母の家に泊まりに行ったことがあります。小さかった私には大冒険でしたが、「よく来たねー」と出迎えてくれた祖母の優しい顔が忘れられません。

祖父は学校の先生をしていましたが、当時の祖父母の家は、広い庭と母屋と離れには小屋があって、いかにも農家のつくりでした。母屋には急な階段で上る二階があって、また、昼でも暗いトイレは、小さい私にはちょっと苦手でした。

しかし、祖母は小さい私たちにいつも優しく気を使ってくれたので、祖父母の家に泊まりに行くのは大好きでした。


祖母は病気で大きな病院に入院しました。母に連れられてお見舞いに行きました。祖母の様子から子供ながらに祖母は大変な病気なのだと感じました。

しばらくたったある日、お昼前幼稚園の教室にいたときに、急に園長先生に呼ばれ「これからお父さんが迎えに来るから、ちょっと早いけど園長先生の部屋でさきにお弁当を食べてしまいなさい」と言われ、園長先生の部屋で一人でお弁当を食べさせられました。

それから、父が迎えに来て、自転車の後ろに乗せられ、あわただしく家に帰り、そこからあわただしく祖父母の家に向かいました。小さかった私にはまだ事態が飲み込めず、いつもと違う雰囲気にただどきどきしていたように思います。

それから祖父母の家に何日か滞在していたと思います。葬儀の準備で大人の人たちは忙しく動き回り、「みんな忙しいから私の部屋でレコードでも聞いて待っていてね」と叔母に言われ、叔母の部屋で好きなレコードを見つけて何度も繰り返し聴きながら待っていました。

そうしたら、部屋に入ってきた叔父に怒られました。聴いていたのはザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」。

「場所と時をわきまえること。」人生で大切なことをひとつ学んだ瞬間でした。

行列を作ってお棺に入れられた祖母を近くのお寺の墓地まで運び、最後のお別れをして、祖母は土葬にされました。何もかもが初めてのことだらけで、あまり悲しさは湧いてこなかった気がします。

母は祖父母の家にしばらく残り、父と兄と3人で電車とバスを乗り継いで家に帰りました。たぶん、その時、父から「お母さんが泣いているのをはじめて見たよ」と聞いたのだと思います。それが衝撃的で、「ああ、母にとっては自分のお母さんが亡くなったということんだな」とあらためて気がついて、とても悲しくなったことを思い出します。

血はつながっていなくても、母にとっても優しいお母さんだったのですね。

祖母なら呆れた顔をしつつも笑って許してくれたかな?こんな歌を葬儀前に夢中で聴いていてごめんなさい。


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