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【オカルト注意】豊臣秀頼は生きていた? 生存説に迫る!【5/23は豊臣家滅亡の日】

本日、5月23日は、豊臣家が滅亡した日です。
1615(慶長20)年の今日、豊臣秀頼の子の国松が京都の六条河原で斬首されました。大坂の陣で徳川家康に完膚なきまでに敗れ、豊臣家は処分となったのです。
これにより、豊臣家の血筋が完全に途絶えました。

秀頼は生きていた!?

この大坂の陣のさなか、大将の豊臣秀頼は母である淀殿とともに城内で自害しています。
しかし、じつはこっそり生きて大坂城を脱出していたという説があるのをご存じでしょうか。

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落城から間もなくのこと、大坂で奇妙な歌謡が流行しました。それはこんな歌です▼

花のようなる 秀頼様を 鬼のようなる 真田がつれて 退きも退いたり薩摩まで

字義通りに解釈すれば、真田が秀頼を連れて薩摩に逃げたということでしょう。
真田とは、この大坂の陣のときに豊臣方として最後まで活躍した武将・真田幸村(信繁)のことです。夏の陣のときに、家康の本陣に何度も突入した末に壮絶な討ち死にしたと伝えられています。

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この幸村がじつは生きていて、薩摩、つまり島津氏が治める現在の鹿児島県へ秀頼を連れて落ちのびたというのです。
すごくぶっ飛んだ話ですが、じつは不思議な言い伝えがあります。

加藤家、木下家、島津家の助け

一説によると、幸村と秀吉は大坂城にあった秘密の通路を通って脱出したらしいです。
その後は肥後藩主の加藤忠広が用意した船の底に隠れて、鞆の浦(広島県福山市)、豊後日出(大分県日出町)などを経て、薩摩に到着したと言われています。

加藤忠広の父・加藤清正は豊臣恩顧の大名です。さらに豊後日出藩主木下延俊は秀吉の正室高台院の親戚にあたります。加藤家や高台院がひそかに支援したとしても不思議ではありません。(清正▼)

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また、薩摩という場所も説得力があります。
薩摩は、上方や江戸から遠い位置にあり、領主の島津氏はかなりの力を持っていました

関ケ原の戦いのときに島津家は西軍側について家康に敗れますが、家康は島津家の領地を取り上げませんでした。地理的な距離のほか、島津家の軍の勇猛果敢ぶりを恐れたともいわれています。(島津義弘▼)

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また関ヶ原の戦いのあと、豊臣家の重鎮だった宇喜多秀家を一時的に匿っていたこともあります。
つまり薩摩はこの当時、武将の落ち延び先として薩摩は唯一可能性がある場所だったと言えるでしょう。

秀頼は酔っ払いに落ちぶれた!?

そして薩摩についた一行は、藩主の島津氏の計らいにより井上谷というところに暮らすようになりました。
やがてここからが、トンデモ説の本領発揮です。薩摩で暮らすようになって1年後、なんと幸村が逝去してしまいます。すると秀頼は、信頼する幸村を失ったことで自暴自棄になり、酒を飲んでは暴れ回るような男になってしまいます。秀頼のイメージとだいぶ違いますね。

秀頼は次第に領民から嫌われるようになり、ついに思い余った領民が江戸へ秀頼のことを訴え出たのです。秀頼が生きていたことが幕府にバレてしまったのですね。これは絶体絶命の大ピンチ! 

しかし、幕府からはなんと「秀頼はもはや死んだも同然」とあっさりした答えが返ってきたとのこと。なんとも拍子抜けですね。政権を盤石にした徳川幕府にとっては、秀頼が生きていたことが広まって混乱を招くことのほうが厄介でした。そのため、問題を表面化せずに見て見ぬふりをしたのだと言われています。

ほかにも、谷山という場所に正体不明の酔っ払いが住み着き、それが秀頼だったという言い伝えもあります。また、秀頼は薩摩で子を為したとも伝わっており、これが事実であれば1615年の今日に途絶えたはずの豊臣家の血筋は、まだつながっていたことになります。もしかすれば、いまも豊臣秀吉・秀頼の血を受け継いだ子孫が、鹿児島のどこかで生きているのかもしれませんね。


参考資料:
『検証 もうひとつの武将列伝』井沢元彦(有楽出版社)
『豊臣一族 Truth in History 8』川口素生(新紀元社)
『秀頼脱出』前川和彦(国書刊行会)

この秀頼生存説に関連した、天草四郎のトンデモ説も紹介しています。▼

Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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