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「想うこと」と「吐き出すこと」の間には1億光年くらいの壁があると私は思っている
誰かを殴ってやりたい。
そう思ったことが無い人なんているだろうか。
私は毎日のように思っているかもしれない。
ただ、それほど心が荒んでいるという訳ではない。
自転車で車道を逆走するおばさん、
スーパーで走り回る子供、
歩きタバコをするおっさん、
見かけるたびに「永遠の眠りにつけばいいのに」と思っている。
しかし当たり前だが、眠らせるべく行動をとることはない。
ここは曲がりなりにも法治国家だ。
そんなことをしたらどうなるかは分かりきっている。
まったくリスクに見合わない。
・・・
ところが最近、
この「思うこと」すら「悪」だと思っているという意見を耳にした。
負の感情を抱いてはいけないという世界観らしい。
永遠の眠りはおろか、「嫌い」という感情すら沸かせてはならないということらしく、常に聖人君子でいなければならないという価値観だという。
とんでもない。
その世界感なら私は『悪人小人』で直ぐに極刑となるだろう。
しかし現実社会ではそれなりに生きている。
それもいわゆる「いい人」として通っている。
それは例え悪いとされる感情を抱いても外に(口に)出さないようにしているからだ。
自分を押し殺して我慢していると言われればそうなのかもしれない。
こういうのを腹黒というのかもしれない。
でも、自分の世界で暴言を吐き続けていることで心の健康は保てているし、誰かに嫌な想いをさせたり迷惑かけたりせずに済んでいる。
少なくとも沸いてくる負の感情を抑えつけながら暮らしている誰彼よりは平穏は保てていると思う。
・・・
もしもあなたが誰彼と同じように、負の感情を抱くこと自体が悪だと思っているのであれば、少しだけ考え直してみるといいかもしれない。
特におすすめをする訳ではない。
ただ、少しずつ自分の感情に素直になり、許しを与えると、本当の自分(表現がチープだが)を取り戻せる感覚が沸くのではないかと思う。
もちろん間違っても行動に移してはいけない。
殴りたいと思って殴るのはただの獣だ。
理性を持った人間がやるべきことではない。
長らく押し殺してきた感情を解放していくにはコツが必要だったり、バランスをとらないと危険なこともある。
自分の中の獣が暴走するのではないかという怖さもあると思う。
だから少しずつでいい。
自分の中に沸く負の感情を見つめて認めてあげよう。
沸いてくる感情の中でも特に「怒り」をコントロールすることをアンガーマネージメントというらしい。
読んだことはないが、いくつか書籍も出版されているようだ。
こうして自分の心に素直になると、自分の気持ちを心に留めておくことに慣れていない人はどこかに吐き出したくなる。
そんなあなたの感情や言葉を受け止めてくれる人がいるのは幸福なことだ。
是非、そういう人を見つけてほしい。
そして自分の思考なんて時と場合によって変わるのは当然だということを実感してほしい。
昨日許せなかった騒がしい子供も、今日は可愛いと思うかもしれない。
その逆もまた然りだ。
常に一定である方が異常であると思った方がいい。
人間はそれほど精密にできてはいないだろう。
その遊びの部分を認識することで、だいぶ心も身体も緩ませることができる。
映画の感想を語るように誰かと話せるといい。
それを繰り返しているうちに自分の心の傾向がわかる。
無性に怒りが沸くこと、許せないこと、おおらかに見守れること。
そしてそれが人それぞれなのだと認識できれば、その時こそ「想うこと」と「吐き出すこと」の間には果てしない差があることがおわかりいただけると思う。
・・・
こう思うと結論のない話を永遠とすることができる相手がいたであろう学生時代は恵まれていたのではないか思う。
(※話をする友達なんていなかったという人もいるだろうが…)
A子「あの先生、最悪じゃない?」
B子「そう?私はわかりやすくて好きだけどなぁ」
C子「授業はわかりやすいけど、口癖が気になって集中できない」
こんな会話でも対象となる「先生」に対して様々な評価があり、どう感じても問題なく、三者三様の感じ方があるのだと無意識に理解できる。
ところが社会人になると、腹を割って本音で話せるような相手は格段に減るだろう。
「社会性」という仮面を被って日々を過ごすうちに本当の自分がわからなくなる。
その仮面自体は悪いものではない。
ただ、すり減っていく自己を回復させる手段は持っているに越したことはない。
一生のパートナーとなるような相手がいればいいが、一緒に趣味を楽しむ相手、お酒を飲みに行ける相手なんかでもいい。
いわゆる愚痴れる相手が大事なのだ。
「話を聞いてくれる相手」がどれほど重要かは歳をとるほどに実感する。
これを書きながらSNSを見ていたら、たまたまこのようなサービスを目にした。
なるほど。
少し味気ない気もするが、ある程度はお金で解決することもできるのか。
確かに人に気を遣い続ける生活は自分を酷く憔悴させるものだ。
どこかでバランスをとる必要があるだろう。
ここではもっと切実な人をターゲットとしているようだが、私が言いたいのはもっとライトな相手で構わない。
歴史を遡れば、文通(ペンフレンド)、メル友、チャット友、LINE友など「誰か」を求める人間の性質は変わっていないのかもしれない。
昨今ではAIやボットのような疑似的な相手も登場しているが、「AIだとわかってしまっている」時点で人間の対応には遠く及ばない。
「OK,Google。Hey,Siri!アレクサ、僕の話し相手になってよ」
これが実現する日はもう少しだけ先なのかもしれない。
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