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夢と知りせば 第1章

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「夢と知りせば」1-1春深き「茂庵」

「夢と知りせば」1-1春深き「茂庵」

あらすじ

大学進学と同時に京都へ引っ越してきた御坂琴子(みさかことこ)は、慣れないひとり暮らしに多忙を極めていた。

ゴールデンウィークのある日、ふと間崎教授の言葉を思い出した琴子は、吉田山にある喫茶店「茂庵」へと向かう。そこにいたのは、茂庵のことを教えてくれた張本人・間崎(まさき)教授だった。

※小説に登場する場所は、全て実在している場所になります。
写真は全て自前のものです。

表紙デザイ

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「夢と知りせば」1-2二人し居れば 「恵文社」

「夢と知りせば」1-2二人し居れば 「恵文社」

わたしの住んでいるマンションは、一乗寺というところにある。

一乗寺と聞いて、大抵の人が最初に思い浮かべるのはラーメンだろう。超濃厚スープで有名な「極鶏」や、ボリューム満点の「夢を語れ」など、行列のできる店が数多く立ち並ぶ、西のラーメン激戦区。それが、一般的な一乗寺のイメージだ。

だけどその一方で、おしゃれなカフェや雑貨屋がひっそりと存在する、小粋な場所であるのもまた事実。これはもしかしたら、こ

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「夢と知りせば」1-3うき我を 「金福寺」

「夢と知りせば」1-3うき我を 「金福寺」

ああ、どうしてこんなことになってしまったの。

恵文社を出たわたしは、海のように波打つ心臓を悟られまいときゅっと唇を噛んで、間崎教授の隣を歩いていた。「連れていってください」だなんて、勢いとはいえばかなことを言ったものだ。お互い顔は知っていたけれど、会話をするのは今日が初めてなのに。大勢いる学生のうちのひとりでしかないわたしが、いきなり教授に京都を案内してもらうなんて、差し出がましいことこの上ない

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「夢と知りせば」1-4極楽にゆく「永観堂」

「夢と知りせば」1-4極楽にゆく「永観堂」

雨の季節はきらいじゃない。髪の毛がうねったり、あまり外に出かけられなかったり、そういう憂鬱感はあるけれど、雨だれの音を聞きながら、ひとりでゆっくりと本を読む時間がすきだから。

だけどそれもひとり暮らしを始めるまでのこと。連日の雨のせいで洗濯物がどっさりとたまったり、傘を差して買い物に行くことがいかに大変か知ると、ああ、もういい加減にからっと晴れた空が恋しいわ、と、雲の向こうにある青色を求めること

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「夢と知りせば」1-5宇治の川瀬に 「三室戸寺」

「夢と知りせば」1-5宇治の川瀬に 「三室戸寺」

京阪宇治駅の改札を出ると、宇治川のたもとにある甘味処が目に入った。

「御茶屋つうゑん」というのれんを背景に、見覚えのある男性が、外の席で茶団子を食べている。曇り空なんて気にもせず、せせらぎに耳をすませるように宇治川を眺めているその姿は、映画のワンシーンみたいに様になっていて、本当にわたしはこの人と待ち合わせをしているのかしら、と、一瞬戸惑う。途端に自分がお化粧をしていないことや、高校生の時と変わ

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「夢と知りせば」1-6茶摘みも聞くや「伊藤久右衛門」

「夢と知りせば」1-6茶摘みも聞くや「伊藤久右衛門」

伊藤久右衛門は、宇治に本店を構える老舗の甘味処だ。パフェを始めとする抹茶スイーツはあらゆるガイド本やテレビで特集が組まれるほど有名で、その味を求めて遠方から訪れる人があとを絶たないのだとか。

日曜日というだけあって、店の前には長蛇の列ができていた。さすが京都屈指の人気店だ。おなかの虫がぎゅるぎゅるとうるさいけれど、ここまで来たら諦めるわけにはいかない。20分ほど待ったところで、わたしたちはようや

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「夢と知りせば」1-7琴坂の「興聖寺」

「夢と知りせば」1-7琴坂の「興聖寺」

伊藤久右衛門を出ると、あれほど曇っていた空が嘘のように青く染まっていた。初夏の顔をした太陽が、出番を待ち構えていたように鋭い輝きを放っている。

「すみません、またご馳走になってしまって」

申し訳なくて頭を下げると、間崎教授は「いいんだよ、このくらい」と、晴れやかな笑みを浮かべた。

「ところで、連れていきたい場所があるんだ。ついてきてくれるかい」

要するに、「ついてこい」ということである。な

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「夢と知りせば」1-8稲荷の杉は「伏見稲荷大社」

「夢と知りせば」1-8稲荷の杉は「伏見稲荷大社」

ふと目を開けると、わたしは鳥居の前にいた。

靄がかかったような頭を動かし、ゆっくりとあたりを見渡してみる。大きな鳥居と、その奥に見える朱色の楼門。どこまでも広がる青白い空が、朱色によくなじんでいた。右を見ても左を見ても、ちゅんちゅんとさえずる小鳥以外に生き物の気配はない。世界にひとりぼっちになったような静けさが、毛布のようにわたしを包んでいる。

ここはどこだっけ。なんとなく見覚えがあるような、

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「夢と知りせば」1-9君によそへて「石清水八幡宮」

「夢と知りせば」1-9君によそへて「石清水八幡宮」

「ここが、『やわたのはちまんさん』の名で親しまれる石清水八幡宮です」

前期の講義もあとわずか、まもなく試験期間が始まるという7月半ば。

見上げれば夏の色をした空と入道雲、耳をつんざく蝉の声。じりじりと照りつける太陽光に肌の奥底まで焼かれそうになる夏の盛り。わたしは――いや、わたし「たち」は、石清水八幡宮を訪れていた。

流暢な説明をしている間崎教授の顔には、わたしに見せるような嘲笑ではなく、穏

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「夢と知りせば」1-10あふみの空も「大文字」

「夢と知りせば」1-10あふみの空も「大文字」

前期の講義が終了すると、苦しい試験期間がやってきた。

講義によって試験方法はさまざまだ。入学して初めての試験ということで、一体どんな形式なのか、どの程度の難易度なのか見当もつかないけれど、そんな学生たちの救世主として、わたしの大学には「試験対策委員会」、通称「シケタイ」と呼ばれる組織が存在する。「シケタイ」に任命された学生は、サークルの先輩などから過去問を入手し、それを学部内で共有するのだ。学生

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「夢と知りせば」1-11神をたのむに「真々庵」

「夢と知りせば」1-11神をたのむに「真々庵」

「素敵ねぇ」

口の中でとろける飴玉みたいに、うっとりとした母の声が、ふやけきった脳みそに反響した。そうだねぇ、と、夢見心地で応えて、わたしは冷たい緑茶を一口すすった。

五山の送り火を見た数日後のこと。名古屋から遊びにきた母とともに、わたしは川床料理を食べるために貴船を訪れていた。

川床、別名納涼床。料理店や茶屋が、川の上や屋外に座敷を作り、そこで料理を提供する、夏の風物詩だ。京都の夏といえば

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「夢と知りせば」1-12あくがれいづる「貴船神社」

「夢と知りせば」1-12あくがれいづる「貴船神社」

暑い、暑いよぉ、と、口を開けば息を吐くより先に愚痴が漏れ、足を動かせば汗がぽたりと雨のように顎から落ちた。大きな麦わら帽子を被っていても、太陽光がじりじりと黒髪を焼き、会話をしようにも蝉の鳴き声が邪魔をする。

「琴子、暑い、お母さんもう限界」

蝉時雨の合間を縫って聞こえてくるのは、片足を霊界に突っ込んでいるような母のかすれ声である。暑い、と自分でつぶやくのはいいけれど、人に言われると暑さが倍増

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「夢と知りせば」1-13風かをる「正寿院」

「夢と知りせば」1-13風かをる「正寿院」

わたし、御坂琴子は、少々緊張した面持ちで高野の交差点に立っていた。

9月8日。夏本番は過ぎたとはいえ、空には分厚い入道雲がもこもこと浮かび上がり、蝉たちは最後の命を振り絞るかのようにうるさく大合唱している。わたしの頬に流れる汗は、お天道様のせい、だけではない。

時をさかのぼること約3週間前、五山の送り火のあとのこと。強引にわたしを実家から呼び寄せたことに罪悪感を抱いたのか、間崎教授は「お詫びに

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「夢と知りせば」1-14大いなる哉「建仁寺」

「夢と知りせば」1-14大いなる哉「建仁寺」

――今しかできないことを、たくさんするんだよ。

別れ際に聞いた間崎教授の言葉が、切れかけの電球のように、頭の中でちかちかと点滅していた。

どうしてだろう。指導者らしい言葉を聞くのは初めてではないのに。恵文社で出会った時にも、同じようなことを言われたはずなのに。そう、そうよ。「今しかできないことをしなさい」なんて、大人がよく使う常套句のはずなのに。

その声はとても力強くて、だけどどこか切なくて

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