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決断の裏にあったのは、同じ数の後悔だった

スクランブル交差点に横たわるビスケットが、この恋のおわりを知らせていた。

早歩きで通り過ぎようとしていたところ、そんな光景が現れたのでわたしは手に持ったアイスコーヒーを思わずこぼしてしまった。

「いつもなんだって早いんだから」

あまりにも優柔不断だったわたしは、いつだったかそれをやめようと決めた。そんな自分が好きになれなかったからだ。なんでやめられたのだろう。多分、「君は何かが足りてない」なんて彼が言ってしまったから。

「なにかをする」と決めてこなしていくと、それができるようになる瞬間がくる。そしてまたすぐに、次にすることを決めてできるようにして。あまりにも着地時間が短すぎると「何かが足りない」と見えるらしい。

自分の力で決められるというのは、ときに賞賛の対象だ。でもその一方で、早すぎる決断は非難されることもある。早すぎる、大丈夫か、またすぐそうやって。少しずつ離れていく彼らを引き止めるすべなどなく、ドライなのだと揶揄される。

いつも楽しそうねと、いつだって迷いがないねと。ないわけなんてない。いつだってわたしは選ばなかった、もしくは選べなかった未来のことを考えてしまう。後悔と呼びたくない、でも多分後悔であるそれらは、決断の数だけ存在してしまう。

優柔不断のままだったら、もしかしたら「早すぎるから」と別れを告げられた過去など存在しなかったかもしれない。そもそも、優柔不断だったから仕方がないかと諦めがついたことだってあるはずなのに。

決めることが多くなるほど、その分後悔することは多くなる。でも、多くなることと後悔による辛さの蓄積は、イコールではない。確かにたくさんの後悔が存在しているけれど、それは数によって重さを増すものではない。

むしろ「自分で決めてきた」という自信が、前に進む力をくれた。「決める」ということをくり返した先にあったのは「これからも何か決めなきゃいけないけれど、なんとかなるよ」という根拠のない自信だった。

そんなわたしが、唯一歩みを止めていられる時間は、彼とアイスコーヒーの魔法をかけているときだった。ゴロゴロと氷をかきまぜながら、目を伏せていつだって彼は。どうせ答えは決まっているんでしょうと、無言で背中を押してくれた。

きみはいつも壁がある」なんて無責任な言葉を言い放っておいて、わたしはその言葉を真実にしたくて、こんなところまできてしまった。

決めた裏で生まれた後悔の消化のためと言い訳をしては、言葉を並べていた。でも、だから気付いてしまったんだ。いつまでもやっぱり、決めていかなきゃと。それが、自分を好きでいられる方法だと。

それがわたしに似合っていると教えてくれたのはきっと、彼とアイスコーヒーだった。多分、彼とアイスコーヒーを分かち合う時間で思ってしまったのだ。「決断」が似合うひとになれば、自分のことを好きになれると。

今でも怖い。決める度に、どこかで後悔してしまう瞬間があることを知っている。でも、それでいい。後悔を知らないまま、大きくなりたくなんてないから。後悔があればあるほど、何かが足りてないほど、わたしはわたしらしくなる。

だから待っててね、まだ知らない物語たち。そんなことをささやきながら、今日もわたしはアイスコーヒーを片手にした時間だけ時間を止めて、たくさんの決断をしていくのだと思う。

「後悔をそのまま捉えるか、輝かせるかはきみ次第でしょう」

読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。