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「似合わない」なんて言葉は、捨ててしまおう

文化が揺れる下北沢に呼ばれたように、わたしはお気に入りのビンテージのレースシャツなどを身に纏い。夕日とサングラスなども受け入れられる不思議は、土地なのか気持ちなのか。わからないけれど、それが心地いい。

駅から5分ほど歩いたところにある「スズナリ」は、想像通りの場所だった。こういう場所が大好きなはずなのに、今までどうして知らなかったんだろう。

旧友のスポーツ少女が演じることに魅せられたと聞いて、わたしは最近よく「芝居」というものを観にいくようになった。結論から言おう、最高だ。

どんなものにも必ず熱量がある。静かに細々と熱量を生むことが得意だったわたしにとって、短時間アツアツのときめきは憧れでしかない。

2時間弱のその演目は、一気にわたしを引き込んでゆく。前のめりになった姿勢にすら気付かない。涙を流していたことすら、終わって初めて気がついた。

「いつまでも夢は持たなきゃ」なんて言って。でも本当は、心のどこかで、いつか区切りはつけなきゃなんて思っている。夢を追い続けてキラキラしていたいね、なんて。どこかで自分にはそんなことすら「似合わない」なんて思ってしまっている。

一瞬の熱量よりも、静かな熱量が似合うだなんて、強がりだ。わたしだって、本当は。憧れていることを「似合わない」なんて諦めてしまっている自分がいることすら、認められずにいる。

そんな憧れの中心に彼女は君臨し、またわたしに熱いなにかをくれる。昔からそうだった。合唱で、彼女が指揮をするとみんなの目がみるみると輝いた。わたしはただその一番近くで伴奏をして、精一杯の熱量を浴びていた。

息遣いまでもが言葉のように胸に迫り、吐き出されたセリフ全てが脚本となり存在しているという事実を、わたしはまだ受け止めきれていない。アドリブももちろんあるのだけれど、それを生み出せてしまう脚本という基盤、それに負けまいと役をわたる演者。

いつまでたってもわたしは冷静なフリをして、本当に格好悪い。大好きなものを、大好きだと、もっと大きな声で言わなきゃ。

本当は分かっていたんだ。あの頃、わたしの希望は彼女だった。息苦しい講堂で、彼女が指揮をして空気を全部大地に返してくれるから。
彼女の合図で入った伴奏ほど、心地よいものをわたしは知らない。だって、今でも覚えている。彼女の指揮にあわせて弾いたあの伴奏が、わたしの中で最高にクリアな演奏だった。どんな大きな舞台で完璧に弾いた演奏より、ずっと。

あの頃から彼女は「演じる」なんていう波を乗りこなしていたのだ。わたしはというもの、毎日を襲う憂鬱という波を乗りこなしていくために、「ポジティブ」を必死で用意していて。

あの頃のように手を引かれ、芝居というものに魅了されてしまった。彼女はいつまでも、わたしに新しい世界を見せてくれる。

わたしは、わたしは。

書くことが、好きだ。わたしは書くことが、大好きだ。


読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。