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ところで本ってどうやって読むの?

先日、友人に最近読んだ本の話をしていた時のこと。
「ところで本ってどうやって読むの?」と聞かれてオッと思いました。そんなこと考えたこともありませんでした。「なんで本を読むの?」と聞かれたら「面白いから」と答えるけれど、”どうやって”読むのと聞かれたら、座って本を開いてページをめくるという以外になんと答えましょう?

彼女曰く、もともと本を読む習慣がないとのこと。座って本を開いてじっとしていることができないのだと言います。

その時は具体的でためになるような返答が思い浮かばず、子供の頃は毎日図書館に通っていて、昔からずっと本を読んでいて習慣みたいなもので、むしろ読まないことの方が難しくて読むことの方が普通というか、本読むのが好きで…と要領の得ない回答に終わりました。
でもどうやって本を読むのか?というのは面白い質問だと思います。自分にとってはあまりに普通なことで、疑問にも感じたことがありませんでしたが、読書に興味のない人も多いでしょうし、彼女と同じような質問を抱いている人は案外多いかも知れません。

私の場合両親が読書好きだったこと、いつも家に本があったこと、学校の帰りに母と図書館で待ち合わせしたり、週末は家族で大きい図書館に行くことが日常だったので、自然と本を読むようになりました。
一番初めに読んだ絵本ではない本のことも覚えていて、多分幼稚園の頃でしょうか『エルマーの冒険』を両親からプレゼントしてもらいまいた。子供向けで挿絵も多い本ですが、少し漢字も混じっていて、その頃まだ漢字は読めなかった私のために、いやもしかしたらカタカナも読めなかったかも知れません、とにかく私の読めない文字全てに母が手書きで振り仮名を振ってくれたお陰でひとりで初めて本を読むことができたのでした。

こうして自然と本を読む習慣ができたけれど、それじゃあ友人のように大人になってから本を読もうと思う人はどうすれば良いのでしょうか。

本の前でじっとしてられないと言っていましたが、彼女は映画好き。映画館の年間パスポートを持っていて、毎週のように映画館に通っています。ということは、2時間くらいじっと集中することはできるのです。

高校の時の同級生に、映画館が大嫌い、2時間も画面に向かってじっとしてられないと言う男の子がいて驚いたことがありました。私の周りは映画好きばかりだったので、映画館で映画を観ることを苦痛に感じる人がいることすら考えたこともなく、自分が当然と思っていることも、みんなにとっての当然ではないんだなあと、当たり前のことですが目から鱗でした。

確かにじっとできない人には映画はなおのこと、読書はさらに退屈に感じることでしょう。無理に本を読む必要もないと思います。しかし、読書に興味があって、映画一本分くらい楽しく観られる彼女なら、一冊の本を読むことぐらい苦ではないはずです。

問題はむしろ、何から読んでいいのかわからない、ということでしょう。

読書好きあるあるだと思うのですが、習慣的に本を読んでいると、次に読むべき本が自然と分かるようになる感覚があります。本屋さんの本棚の前に行くとスッと引き寄せられるような、そういう感覚。
題名や本の佇まいに引き寄せられることもありますし、普段から書評や読書コメントを読んでいると、その時にはピンと来なくても知らず知らず本の情報が蓄積されていて、自分にとって最適なタイミングが来たときにパッと目の前に飛び込んでくるような気もします。引き寄せられるように手に取る作品は大抵面白く、経験上、こういう感覚をとても信頼しています。

でも読書の習慣がなく、一冊目に何を読むのがいいかと聞かれると難しい。

自分の興味のある分野やテーマをあつかったもので、あらすじを読んで興味の惹かれるもの、あんまり長過ぎず、かつ難し過ぎないものを選ぶのが無難かな、古い本より新しいもので、翻訳よりも母国語で書かれたものの方がスラスラ読み易いかも、と思ったところで、桐島洋子さんの『聡明な女は料理がうまい』という本を思い出しました。

その中に、洋子さんの友人で料理が全くできない女医さんの印象深いエピソードがあります。

茹で卵すらまともに作ったことのない友人に料理指南を始める洋子さんが取り出したのが『美食三昧  ロートレックの料理書』という複雑豪華な料理本。初めての料理がハムエッグで失敗したら一生立ち直れない。初陣こそ豪華にすべし。ただしレシピを読んでどんな料理に仕上がるかイメージの浮かぶもので、自分が食べたい!と思うものを選ぶこと。レシピ通りに作れば大抵どうにかなるものだから、まずは難しい料理を制して弾みをつけるべし。

1970年代に書かれた本なのですが、今取り出してみても洋子さんの言うことはいつも決して凡庸ではなく、しかも他にも応用できるような普遍的な理があります。

この理論は読書でも同じかも知れません。初めから簡単に読めるけれど薄っぺらくて中身のない本を読んだら得るものもないし、わざわざ時間をかけて読書しようなんて思えない。
ここは敢えてじっくり物語の世界を味合い、しかも読み終わったら今までのようには世界を見られなくなるような、長編名作文学にチャレンジするのがいいのかも。薄っぺらい本さえ読み終えられなかったら、やっぱり自分には読書なんて向いてないなと思っちゃうかも知れませんが、長編なら読み終えられなくてもまあ仕方ないと思えるもの。

面白いと感じないなら読むべき時期ではないだけで、無理に最後まで読み切る必要もなし。読みきれなくても良いという気持ちで手当たり次第に面白そうな本を読み散らかしてみる。鞄の中やおうちのどこかすぐ手に取れる場所にいつも本を何冊か置いておく。簡単に読めそうな短編を、なんて縛られずに、読み切らなくて良いという軽い気持ちで世界の名作にどんどこ手を出しているうちに自然と、これは面白いぞ!という本に巡り会えるのでは。

と言うわけで、結局どうやって本を読むのか?への回答は、とりあえず手当たり次第に気楽に読んでみる、と言う身も蓋もないものになってしまいました。

ちなみに村上春樹さんの著書なんか、一冊目にどうでしょう?とても読み易い上、彼の著作を読んで好き嫌いはあっても無為な時間を過ごしたなって感じたことはありません。
超人気作家だからきっと周りにも一冊は読んだことある人がいて、お互いのハルキ論を語り合って楽しめるはず。ネットにも書評がいっぱいあるし、自分の読んだ本については他の人がどう思っているのか気になるものだから、感想や考察がふんだんにあると2度美味しい。私は特に『風の音を聞け』と『羊をめぐる冒険』が好きです。小説が苦手な人でも、彼ならエッセイもたくさん書いているのでエッセイから入るのも良し。そのうち小説にも手を出したくなるかも知れません。村上春樹さんなら翻訳もされているから、英米文学へ興味が広がっていく格好の入り口にもなるのではないでしょうか。


読書って効率を求める対象でもないし、読んで何か学ばないといけない訳でもないし、読んだからすぐに何かが変わる訳でもない。ハマり過ぎると外に出るのが億劫になっちゃう危険もある。
それでも読書好きになったことは、一生楽しめる両親からの一番の贈り物だったなと感謝しています。

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