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荒川洋治・新しい読書の世界 エッセイの空間

最近noteを書くのが楽しくて、書くほどに新たに書きたいことが出てくるのですが、ふとこんなこと書いてなにになるのかなあ、自分は一体なにを目指してなんのために書いているんだろう、と思う時があります。

自分が楽しいから書けばいいのだけれど、書いているとだんだんもっと上手に書きたいとか、もっと分かりやすく伝わるように書きたいとか、自分の頭の中にぼんやりあるものをより明確かつ自分の気持ちにぴったりな形で書けないかなとか、欲が出てきます。

そもそも日記やエッセイ、個人的な考えの記録を人前で書く意味とは?
上手に書きたいと思うけれど、自分が近づきたい上手な文章とは?


そんなことをぼんやり考えていると、先日から聴き始めていた荒川洋治さんのNHKラジオ・新しい読書の世界、第11回『エッセイの空間』を聴いた時、ピカッと頭の中が光りました!これだ!


『エッセイの空間』は荒川洋治さんによるモンテーニュの『エセー』の紹介から始まります。

エセーとはフランス語の"essai"=試み。様々な人生経験を経たモンテーニュが試みにいろいろな事柄について自分がどれくらい知っているのか、どれくらい書くことができるのか、知っている限りのことを気ままに書いた『エセー(essai)』がエッセイの始まりと言われています。
エッセイとは何かを写して書くのではなく、自分の中に探して行くもの。

自分自身を材料にしてものを考えて行くということ

という荒川洋治さんの言葉に惹かれます。とても良い言葉だなと思います。



モンテーニュの次は幸田文さんのエッセイの紹介です。

日常生活の中で気になったことがあると、自分の頭の中で決めつけたり想像したりするのではなく些細なことでもどんどん研究し、実際に観察して書き留めたという幸田文さんの様子に心惹かれます。

本当に見た訳でもないのに、ついついこんなもんだろうと決めつけてちゃんと自分の目を凝らして見ていないこと、そのことにすら気づいていないこと、誰にでもあるのではないでしょうか。
経験を積んだり知識が増えるほど、わかった気になってしまって見ていないことは多いと思います。
感性の鋭い方が書いた日常生活を題材としたエッセイは、私たちの目の前にも同じように広がっているのに見えていない日常の豊かさ、おかしみ、悲しさ、優しさに、気づかせてくれるようです。幸田文さんのエッセイ、ぜひ読んでみたいです。


幸田文さんの次に紹介される中谷 宇吉郎さんは恥ずかしながら聞いたこともなかった随筆家です。

彼のエッセイを引用しながら、そこから荒川洋治さんが考えたことを語ります。”人と会えない時間”について思いを馳せる荒川さんの感性が好きです。
荒川洋治さんの考えたことは、筆者の中谷さんが意図していたこととは違うかも知れません。でも、ぼんやりしたことを色々考えさせるのがエッセイだと荒川さんはいいます。エッセイとは何かの答えを見せてくれるものという訳でもない。
なるほどだから私はエッセイを読むのが好きなのかも知れません、ぼんやりと色々なことを考えるのが好きなのです。


最後に、荒川洋治さんがエッセイを書く上で大切にしていることを教えてくれます。

事実を大切にして嘘を書かないこと、本当にあったことを基にするのがエッセイです。

自分の内部と外部を常に行き来すること
自分の書いていることを少し遠くの方から見つめることで単なる身辺雑記に陥らないようにします。

素直であること
感じてもいない決まり文句を機械的に書いていないか?決められたレールに沿って書いてはいけません。自分の感じたことしか書かないのが鉄則で、気取って嘘をつくのはダメ。

最後に、エッセイの長さと山場の作り方についても一考する必要があると、具体的な文字数と山場の盛り込み方についての考えを教えてくれます。


どうでしょうか?気になった方はぜひラジオ講座を聞いてみてほしいです。なんだか改めて文章を書きたいなという楽しい気持ちが湧いてくるラジオでした。
書くことを通して、自分自身を材料にしてものを考えることを、私もやっていきたいです。



ちなみに、第12回『日記』もお気に入りの放送回。

日記とは書く内容が大切なのではない、日記を書くその一瞬が、自分を感じ取れる静かなひと時なのだと荒川洋治さんはいいます。

気忙しい毎日に忙殺されそうになる中、たった3行でも良い、1日の最後に日記に向かうその瞬間は自分自身に帰ることができる。日記を書くことは忙しさの中に自分を手放してしまわないための習慣なのだと思うと、今日からでも日記を書こうという気になります。
(荒川洋治さんの『日記をつける』も大好きな一冊です。全くもってハウツー本ではありません。それよりも日記というものの面白さ、知らなかった深い一面を見せてくれるような本です。)


全13回の放送を聴き終えて、読みたい本リストがまた長くなりました。

内田百閒 『ノラや』
尾崎翠 『第七官界彷徨』
サローヤン 『ヒューマン・コメディ』
モンテーニュ 『エセー』
幸田文 『包む』
中谷宇吉郎 『雪と人生』
武田百合子 『富士日記』

などなど

他にもたくさんの詩人や作家、書籍が紹介されていて好奇心がつきません。

荒川洋治さんの本を読んでいていつも思うのですが、その圧倒的な読書量には今からどれだけ本を読んでも追いつけないだろうなと、クラクラします。でもこうやってどんどん先を歩いて行く方が道を照らしてくれるからこそ、膨大な書物に溢れる読書の山を手探りで進む道のりがより一層豊かで学びの多いものになるのだなと感じます。

本や詩を紹介するときの荒川洋治さんの嬉しそうな、楽しそうな、本当に心から感動したんだなと伝わってくるその声を聞くだけで、こちらまでウキウキしてくるラジオ講座でした。



荒川洋治さんといえば、『忘れられる過去』。何度も読み返した一冊です。

大学で”工学部のための倫理”と言う授業を受けていたときのこと。壁に向かって話しかけているような、聞き取りにくく退屈な授業だったのですが、毎回授業の最後に教授が感銘を受けた文章を紹介してくれて、そこだけはとびきり面白く、気になる本があると大学ノートにメモを取り図書館へ探しに行っていました。


荒川洋治さんの『文学は実学である』もその教授が紹介してくれたエッセイのひとつで『忘れられる過去』に載っています。
あの頃から10年以上経ち、悲しいことに文学の存在感はさらに薄れています。『文学は実学である』、いま一度読み返したい言葉です。



荒川洋治さんの言葉は、感性の鋭さと物事を見つめる眼差し、言葉と教養の豊かさが、遠くにある景色へとこちらの目線を運んでくれる、そんな言葉です。

noteでも個人的な日記でも、書き続けるうちにいつか私も、荒川洋治さんや彼の紹介する文豪たちが見た景色の一片でも目にすることができるようになればなと、そんなことを思っています。

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