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奪取すること、写真の暴力性

何度か一緒に働いた駆け出しフォトグラファーと話した時のことです。彼はニット帽ブランドの写真を撮る仕事を定期的に行っていて、夏のバカンス中にアフリカ3カ国を回って写真を撮って来たと言います。ニット帽とカメラを鞄に詰めて、ひとりでアフリカへ。現地で通訳ガイドさんを雇って旅をする。旅の途中で出会った人たちにニット帽を被ってもらって写真を撮らせてもらったのだとか。

これを聞いたとき、なんとなく、咄嗟に、モヤっとしました。嫌だな、とまで断定はできないのだけれど。

写真を撮らせてもらったら数ユーロお金を払ったそうです。
旅の途中で山道で事故に遭って頭がパックリ切れて病院に運ばれ手術もしたそうです。
大変な旅だったけど、絵になる写真が撮れたそうです。


彼は同じニット帽ブランドの仕事で、パリでストリートキャスティングしたスケートボーダーたちにニット帽を被ってもらって写真を撮るシリーズの撮影もしていました。ストリートキャスティングとは道で出会った人に声をかけてモデルになってもらうことです。


パリのスケートボーダー達に写真を撮らせてもらうことと、アフリカの旅の途中で出会った人に声をかけて写真を撮らせてもらうこと、やっていることは同じ。
なのですが、パリのスケートボーダーの写真を撮ることにはモヤっとしないのに、アフリカの旅の話にはモヤっとしてしまう、これは一体どうしてなのか。


アフリカで現地の人にニット帽を被ってもらって数ユーロ払って写真を撮ってヨーロッパでニット帽を売ることには奪取し奪取される構造のようなものを感じます。現地の人をオブジェとして利用しているように感じてしまう。パリのスケートボーダーとヨーロッパのニット帽ブランドは同じ文脈にいるけれど、アフリカで写真を撮られた人たちは同じ文脈にいないように感じるのです。

写真を撮らせてもらって対価を払ったのだから問題ないだろうと言う意見もあるでしょう。また逆に、現地の物価の安さにつけ込んでたった数ユーロしか払わないと言うのが奪取だと言う意見もあるでしょう。じゃあ幾ら支払うのが平等なのか?

例えばアフリカのある国で写真を撮って5ユーロ払うとき、現地での5ユーロはフランスでの50ユーロ分の価値があるかも知れません。果たして5ユーロ払うのは不平等なのか?パリでストリートキャスティングしたモデルに100ユーロ払うとします。だったらアフリカでのストリートキャスティングにも100ユーロ払うのが平等なのか?その100ユーロは現地では1000ユーロの価値になるとしても、そのことがその人の生活のバランスを崩すことにはならないか?

5ユーロは現地の人にとってはありがたいお金なのかも知れませんし、撮られた側はラッキー!くらいにしか思っていないのかも知れません。
もちろん5ユーロか100ユーロか、と言うのは例えの金額で、実際彼の旅した国とフランスの間にどれくらい貨幣価値の差があるのか私は知りません。
それでも何が妥当で幾ら払うのが平等なのだろうかと考えてしまいます。


物価の安い国で生産し物価の高い国で売って儲けるというのはビジネスの基本なのでしょう。

フランスブランドの服でも中国産のものを買うとき、異常に安いファストファッションブランドの商品を買うとき、私も経済格差を利用した奪取の構造のメリットを享受する側なのです。それはある程度まで仕方のないことなのかも知れません。でも行き過ぎるのは怖いし私たちは確実にもう行き過ぎてしまっているように感じます。ただ安いことだけを追求し過ぎていて、どこかにしわ寄せがいっているんだなと、買い物をするときドキッとすることがあります。


でもフォトグラファーの話にモヤッとしたことの根本は、金銭的なことではありません。それは広告写真を撮るという行為についてです。

どんな写真であれ他者の写真を撮ることには、被写体個人の人格や人間性を無視し、被写体の所属しているカテゴリーやイメージや身体だけをオブジェや飾り物のように扱う危険性を孕んでいます。時にはそこに暴力性すら感じます。

アフリカの光のもとで、アフリカの景色を背景にニット帽を被せられた現地の人の写真。彼の地から遠く離れたヨーロッパから見ると、とてもエキゾチックでフォトジェニックな写真でしょう。
でもそこには、珍しい観光地の写真を撮るときと同じ興奮で現地の人の写真を撮るような違和感を感じます。ニット帽を商品として魅せるために現地の人を物として扱っているような違和感。


最近観たブリュノ・デュモン監督の映画『FRANCE』の中にレア・セドゥ演じる超人気ジャーナリストが難民ボートの取材をした映像を見るシーンがありました。紛争地である母国からボートで逃げようとする人たちの映像を見ながら、ジャーナリストとそのマネージャーが「ああ、良い絵が撮れてる!この悲しそうな表情!」「悲壮さって絵になるよねえ」「溺れてる人の映像が無かったのが残念〜あはは冗談冗談!」と言い合うシーンがあるのですが、これが秀逸。この映画自体は好きじゃ無かったのですが、ジャーナリズムの虚構、衝撃的な映像ほど売り物になる現実、それしてそれを無意識に消費している視聴者の存在を想起させられる皮肉なシーンは非常にリアルでした。

私は冒頭のフォトグラファーの写真にも同じような悪趣味さを感じてしまうのです。


ある靴ブランドの撮影で、パリ郊外の殺伐とした場所に行ったことがありました。カメラの機材など、盗まれないように気をつけて!とプロダクションの人たちが繰り返す中、モデルに靴を履かせ、とても廃れた、だけど確かにそれが絵になる小さなお店の前で撮影をしました。同僚が皮肉な感じで「貧しさって絵になるよね」と言ったことが忘れられません。

ある意味で貧しさを押し付ける側である巨大なファッションブランドが、その貧しさが絵になるから自分たちの商品を売るために利用する。そしてさらに超量産型社会が加速され、格差が広がっていく。なんだか虚しい気持ちになる撮影でした。


写真とは扱い方によっては誰かを救う可能性を持った表現でもあるし、一方で表現として力を持っている分だけ、被写体を物として扱う暴力性を内包しているということを、写真を撮る側に関わっている者として忘れずにいたいです。

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