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『サラバ!』 思いがけず自分の嫌ったらしさを発見する

長編小説の世界にどっぷり浸っていると、凝縮された広大な時間を漂うような、独特の快感があります。『サラバ!』は大変読みやすく、勢いよくページをめくることのできる長編でした。


問題ある家庭の物語に特別惹かれます。どうしても他人事として読めないのは、物語の中に無意識のうちに解決策を求めているからでしょう。完璧な家庭なんてどこにも存在していなくて、いかにも幸せそうに見える家族にだってその人たちの間にしか分からない悩みがあるのだと思います。でも家族というテーマあまりにも近すぎて、実生活ではなかなか明け透けには話しにくいもの。だからこそ物語の中に救いを求めて読んでしまいます。


我が強く、諍いの絶えない母と姉に対し、徹底的に受け身であることを選ぶ歩のサバイバル術には共感しつつ応援する気持ちで読んでいたら下巻の第1章で一気に視点が転換し頬を殴られるようでもあり、ああ、そういうことだったのか、と清々しくもなりました。

歩の誕生からここまでずっと彼の視点で家族を眺め、人生を追ってきたけれど、姉と数年ぶりに話す場面で(全編を通してまともに姉と会話するシーンはここが初めてだったかも)初めて客観的に歩を見ることができるクリーンヒット。ページを重ね、彼の家庭環境と幼い時からの身の振り方を見てきたからこそ、この場面が生きて来る。長編小説ならではの爽快感でした。
順調に見えた人生がガラガラと崩れていく様子が臨場感を持って描かれていて、そんな時に誰かを見下すことでしか自分のことを守れない弱さにはリアリティがあり、ヒリヒリしました。

しかし下巻の前半が一番盛り上がり、それ以降の展開はちょっと失速気味にも感じます。それでも自分の信じるものは自分で見つけないといけないというテーマには好感が持てました。家族は自分と近い存在であるからそれだけ言い訳にしやすい。でも誰かを言い訳に使っていては、自分の人生を他人のせいにしているうちは、自分の幹は見つからないのです。

『サラバ!』 西加奈子著

あらすじ
父親の転勤によりイランで生まれ、大阪を経てエジプトへ、と引っ越し続きの生活だった歩。奇行の多い姉という存在に幼い頃から悩まされ、両親の不仲に心を痛め、家庭では良い子を演じ、学校では悪目立ちを避け、波風立てないことを信条に生きてきたのだが…




ここからはネタバレになります。


本筋とは関係のないところで色々と思い当たる事があり、読みながら自分の嫌ったらしさと向き合うことになりました。
歩のことを苦手に感じるこの気持ち。苦手とは羨ましいの裏返しでもあります。


母と姉のいざこざの中に僕を残して父は「逃げた」と感じている歩ですが、彼が大阪の家を脱出して東京の私立大学に通いながら一人暮らしできたのも、将来の心配をせず、就職活動せず、やりたいことやってフリーターでのんびりやれるのも、引きこもりになれるのも、本を書くことにしたら働かずに本を書くことだけに時間を遣えるのも、父がくれたお金や矢田のおばちゃんが残した遺産がセイフティネットとして後ろに控えているから。歩の家庭や人生にどんだけ問題があっても、金銭的に困ることは一切ないのです。だけど家庭のことで、自分のことをいつも被害者のように感じている歩。

そして他者から贈与された経済的余裕が作る時間の余裕があるからこそ、禿げるということに対して、ここまで集中して落ち込むことができる。引きこもることもできる。時間をかけて迷走もできるし、その後に自己再生することもできる。

歩のお姉ちゃんも同じく父と矢田のおばちゃんによる金銭的援助があったからこそ働く必要がなく、とことん引きこもったり自分自身にだけ集中することができた。世界中旅行して、人生の大切なものを見つけることができた。


羨ましく思ってしまうと同時に、なんだか救いのない物語にも感じてしまいます。
お金について考えなくて良い、働かなくて良いという与えられた環境を存分に生かしたお陰で、自分の信じるものを見つけられたっていう話。これってかなり特殊な環境条件なのでは。しかもその環境が特に有り難みもなく当然の如く享受されている。

そんな姉弟を見て、よかったね、と思うよりもやっかみを感じるのは金銭面でまだ自分が劣等感を抱いているからなのだなと気付かされました。金銭的に恵まれそれを当然と受け入れてる人にやっかみを感じてしまう自分のいじましさ。


ではなぜ、金銭的に恵まれている人、しかも親から何不自由なくお金を与えられてる人にやっかみを感じるのか、と考える。
お金に困ることがあったから、お金に恵まれている人を羨ましく思うのだろう思いました。


でもなんかそれだけじゃない。

もっと考えると、今自分は十分にお金を稼げているし、もう自分を貧乏だと感じることもありません。
それに例えば今持っているもの、これまでの経験、好きな国に住むこと、世間の常識に縛られずに決断できる自由さ、数は少ないけれど大切な友人、そして大好きなパートナーとの生活と引き換えに、一生お金のことを考えなくて良いだけのお金をあげるよと言われたら、絶対断ります。そうか、お金があるってラッキーだけど、それだけで満たされるものじゃない。お金があるというのは、満たされた生活に必要な他の全てのものと優劣なく等しく重要な一つの条件でしかない。
しかもよくよく自分のことを振り返ってみると、めちゃくちゃ素晴らしいものをもうたくさん持っています。自分はかなり恵まれていて、歩を羨ましく思う必要なんてないのです。


それなのに羨ましいと感じるのは、自分のことを貧しいと思うことの快適さを知っているから。お金が無いというのは分かりやすい。簡単に自分のことを惨めだと思えるし、何かできないときには都合の良いもっともな言い訳になるし、同情も引けるし、ああ、あの人は家がお金持ちだから、と簡単に他人を非難することもできる。惨めだと思うことは惨めだけど、心地よさもあるのです。

逆に恵まれていると、それだけ求められることや非難されること、認められないこと、簡単だと思われること、努力しないといけないと周りから思われることが増えます。

だから居心地の良い惨めさにありつくために、努力なく金銭的に恵まれている人をやっかんでいたんだと、ハッとしました。

それに自分が恵まれていると認めることは、なぜかちょっと罪悪感というか、ズルしてる気分になるような、1ミリの居心地の悪さもあります。

でもお金のせいにして自分を惨めがって安心しているのは、なんでも他人のせいして自分を被害者と思っている歩と同じこと。歩にイライラっとしたのは、自分にもそういう部分があるからだったのだと気付かされたのでした。

他者は自分の鏡だとは、本当によく言ったものだと思います。


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