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『映画もまた編集である』 突き詰めたのちに至る人生の真理

これは、本当に全力でおすすめしたい1冊です。

ページをめくるごとに知的好奇心を揺さぶられ、驚きや発見が尽きず、面白い箇所にドッグイヤーをしていたらドッグイヤーだらけになってしまいました。


原題は"Conversation with Walter Murch"。映画ゴッド・ファーザーシリーズや『地獄の黙示録』の映像・音響編集を担当した稀代の編集者ウォルター・マーチと、『イギリス人の患者』原作者のマイケル・オンダーチェが同書の映画化にあたって編集者として参加していたマーチと出会ったことをきっかけに行った、5回に渡るインタビューを書籍化したものです。


『映画もまた編集である』という著名にもあるように、映画編集について書かれた本なのですが、どんなジャンルであれ深くひとつのことを突き詰めた人が語る言葉には、たとえそれが映画編集という限定的な分野についてであっても、あらゆる創作に、もとい人間の営み全てに共通の真理がにじみ出てくると思います。


初めの章では、フランシス・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』や『カンバセーション…盗聴…』など自分の好きな作品がどのように編集されたのか、編集の技巧がどれほど映画に影響するのか、具合的に解き明かされていく巧みさに引き込まれていきます。ひとつのシーンのわずかな変更が、登場人物の性格を変えてしまったり、はたまた映画の主題にまで影響を与えることがある。編集も大切だとは思っていましたが、まさかここまで映画の本質的な部分に影響を与えるものだとは予想していませんでした。彼らの語ることは、普段は監督の影に隠れて見えない編集者という仕事をただ奉るような机上の空論ではなく、映像と音響編集が与える影響について、彼自身が編集者として参加した映画の具体的シーンを上げて詳しく説明してくれるので非常に説得力があるのです。


本書を通して特に驚いたのがウォルター・マーチの観察眼と知性。

編集者が役者を観察するのは、狩人が獲物を見つけるために森を観察するのと同じように、とても重要なことだと言います。実際マーチの観察力は常識を超えています。

例えば、シーンの変わり目は役者が瞬きをする瞬間がうまくいく、それがたとえ会話の途中であっても瞬きの瞬間にカットするとうまくいくことが多い。というのが何百時間もの映像を見続けて発見したマーチさんの持論です。会話の途切れるところとか、セリフを言い終わったところ、息継ぎする瞬間なんかがカットしやすいのではないか、とわたしなら想像しますが、瞬きに注目するという、それだけでも目の付け所が興味深い。しかしそれだけではなく、役者が瞬きする瞬間は無声音のtやhやsを発音するときが多い、しかし同じ無声音でもdではなぜかあまり瞬きしない、のだとか。いったいこの人はどこまで観察しているのでしょう!これぞ本物のプロフェッショナリズムではないでしょうか。驚愕してしまいます。


マーチはまさにわたしの考える"知性のある人"の素晴らしい一例と言えるでしょう。こんなにも知的好奇心を刺激され、やる気の湧いてくるインタビュー本との出会いは久しぶりです。

彼が映画を語るとき、現代から過去、そして未来へと柔軟に思考が展開され、その知的さに読むごとに脳が解きほぐされるように感じます。

たとえば、太古の昔にピラミッドを作ったエジプト人の技術や想像力に現代の我々が感嘆するように、私たちには想像もつかないような技術や知識を持った未来人は、20世紀の映画づくりについて「冗談としか思えないほど限られた資源で、いったい全体どうやってこんな映画が作れたんだろう」と驚嘆するだろうね、なんていう風に。

また現代人がエジプトの絵画の歪さを笑うように、私たちが自然だと感じる映画表現も五百年後には奇妙で笑えるものになるかもしれないと言います。

さらに楽譜の発明が音楽を大きく進化させたように、映画についてもいつか符号表記できるようになるのではないかと考えるマーチは、映画の符号表記と中国の易経の関係の可能性について探ります。

はたまた彼曰く映画の父は、エジソンとベートヴェンとフローベール。一見時代も分野も異なる意外な組み合わせですが、読むと納得。異なる分野を横断する強い分析力を感じることができます。

こんな風に過去と現代を比べるだけでなく、未来の立場から現代について客観的に振り返ることができる、時代を超える視野の広がりを持つ人はとても賢いと思うのです。


そしてマーチはとても博学で好奇心旺盛かつ人生の楽しみ方を知っている人。

映画編集の仕事から日常生活へ戻るための橋渡しの”趣味”として始めるイタリア語翻訳のエピソードも大変面白く、編集と詩の翻訳には共通するところがあるのだとか。

オンダーチェがマーチの家を訪ねると、ピアノを演奏し始めるマーチ。披露するのは惑星間の距離がピアノの鍵盤のパターンや距離感と相似しているというマーチ自身の理論に基づいているという自作曲「天体の曲」。科学と芸術、広範囲に及ぶ好奇心を持つ彼だからこその作曲ではないでしょうか。マーチの深い知的好奇心に基づいた生活の楽しみ方にはぐうの音も出ません。


もちろん本職である編集についての金言も多々あります。

編集においては時に語らないことの方が多くを語ること。

音を録音するのではなく、その音が鳴っている"空間"を録音すること。

実際に全ての環境音を聴かせなくとも、特定の音があればその他の環境音は観客の頭の中で補完されること。

彼の語る映画と編集を通した物事の見方は、映画の仕事に関わっている人だけでなく、創造的に生活したい人の一助になることでしょう。


昔から"頭が良い"っていうのはどういう人かと思う時に浮かぶのが『12人の怒れる男』の主人公。そこにさらにウォルター・マーチさんが加わりました。

抽象的に”世界”というものについて考えるとき、わたしはよく弾力のあるゴムボールのような球体をイメージします。

何かひとつのこと、たとえばギターを極めるとしましょう。ギターを学ぶことはゴムボールの一点を指で押していくことと言えます。より深く学び身に付けていくごとに、ゴムボールの表面は中心に向かってどんどん凹んで行きます。

凹んだ深さが学びの深さを表しているとしましょう。初めはギターを学んでいたのに、ギターという一点を押し続けると、その周辺の表面も、たとえば音楽理論とか、音楽の歴史なんかも引っ張られて沈んで行きます。音楽を通して海外や外国語に興味を持つこともあるでしょう。ひとつのことを学ぶことをきっかけに、その周辺に広がる領域についても自然と知識が増えていくのです。

さらにギター地点を強く押し続けることでゴムボールが凹む時のように、凹む領域も広がっていきます。

そしてギターを突き詰めた最終地点は、ゴムボールという世界の中心へ、ギターを学ぶという経験を通して世界の真理に繋がるのです。

ゴムボール界のギター地点の裏側には何があるでしょうか?たとえばサッカーとしましょう。ギターをしてサッカーをしなかったら、サッカー地点のことは表面的にしかわからないでしょう。しかしサッカーを突き詰めた人も、ギターを突き詰めた人も、突き詰めると同じゴムボールの中心へ行き着くのではないかと思うのです。

ギター地点を押し続けた経験とサッカー地点を押し続けた経験、そこで得たものは異なりますが、なんでも突き詰めると同じ真理へと到るのではないでしょうか。いつかゴムボールの中心の風景を見てみたいです。


『映画もまた編集である』は、ウォルター・マーチという人が映画編集という地点を押し続けて得た豊富で魅力的な経験を覗かせてくれ、さらにその先にある世界の真理に触れさせてくれる知的好奇心と冒険に満ちた一冊です。




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