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『リアル・シンデレラ』あの子は本当に不幸なの?

何かイベントがある時にひとりだと、寂しく感じます。でもその時私はひとりだから寂しいのか、イベントと言う"誰かと楽しむべき日"にひとりでいることに寂しいと感じているのか、それともそんな日にひとりでいるなんて寂しい子と誰かから思われるのではと想像して寂しいと感じているのか。ふとそんなことを考えます。

幸せかどうかと言う問いも寂しいかどうかと言う問いに似ていて、果たして自分の基準で測っているのか、世の中のムードによって作られた”自分”の基準で測っているのか、それとも他者の基準で測っているのか。

でも幸せな人というのはどういう人のことなのでしょう?
姫野カオルコ著『リアル・シンデレラ』は幸せとは何かと考えるとき、ひとつの答えを与えてくれる小説かも知れません。答えを与えてくれなくとも、少なくとも視野を広げ、新しい何かを提示してくれる小説であることは確かでしょう。


『リアル・シンデレラ』 姫野カオルコ著

あらすじ
シンデレラを幸せとは思えないライターの<私>は、上司から倉島泉という女性について取材するよう命じられる。上司曰く、幸せというのは倉島泉のような人生のことなのだとか。しかし彼女の親族や友人に取材をしていく中で明らかになる、貧乏くじばかり引かされてきたかのような理不尽とも言える彼女の人生。果たして幸せとは何なのか?


人は自分の見たい物しか見ず、他人を語る時それは他人に映った自分自身の反射を語っているだけに過ぎないということをまざまざと見せつけられます。

物語の中には一切、泉自身が語るパートはありません。全て周りの誰かが語る言葉。だけど少しづつ、断片的だけど具体的なエピソードが積み上げられ、泉と言う人物が浮かび上がってきます。

果たして泉は幸せだったのでしょうか?

自分で自分を幸せにできる人が幸せな人だと思いながら読んでいました。そういう意味では泉は幸せだったのかも知れない。と思いつつ、それでもなお何か一つ違っていたら、誰かがあの時何かもう一言言っていたら、泉も誰かの隣にいる幸せを得られたのではと思ったところでハッとしました。それじゃあ自分も、奈美やみよしのように自分の幸せの基準で他人を測る人間で、1人より2人を良しとする既成の価値観で他者の幸せを測りたい人間なのだと思い知らされます。

そもそも他人の幸せとは願うもので、測るものではないのでしょう。そして幸せな人とは、自分の基準に生き、他人と自分を全く比べずにいられる人なのではないでしょうか。

泉を幸せと読むか、可哀想な子と読むか、それも結局、読者自身の見たいものを彼女の虚像に投影しているだけなのかも知れません。


大人になると悲しいときよりも、人間の優しさや善き心のようなものに触れた時に涙が出てきます。

泉の”幸せ”の秘密が明かされる最後のページ、その答えに涙がぼろぼろ溢れてきました。決して意外な答えではありません。ありふれた言葉とさえ言えるような、何度も聞いたことのある言葉。それなのに、どこまでも新鮮に思いがけず心に迫って来ることに驚きました。

それはこの小説が素晴らしかったから。ありふれた言葉というのは、簡単なことと同義ではなかった。その重みが、実感を伴って感じられるくらいに。


コンセプチュアルアートなんかを鑑賞するとき、作品のテーマや作者の意図は面白いのに、作品それ自体には全く面白みを感じないことがあります。それならわざわざそんなまどろっこしいものを作るより、ズバッとその意図を言葉で端的に言ってくれる方がよっぽど理解しやすいと、斜に構えて感じてしまうことがしばしば。そういう作品には魅力を感じません。

『リアル・シンデレラ』はまさにその真逆でした。一見ありふれたメッセージが、この小説を通して読んだ後に出会うと全く異なるものに見えるのです。そのメッセージだけをはじめに言われても、こんなふうに心動かされることはなかったでしょう。

ただコンセプトが目新しいだけで中身が空っぽな作品も多い中、この小説はその過程にこそ意義があり、物語を通して新しい感情を生き直させてくれるような、小説というものの存在価値を改めて理解させてくれる良作でした。

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