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余計な事はしすぎるほどいいよ

"モノに執着することをとやかく言ってくる人って、その人はその人で生き方とかに執着してると思うんだよね。
自分はモノに執着する人間なんだけど。"

だいぶ前、仕事終わりの飲みの席で仲間の1人が言った。


モノに執着する人
お金に執着する人
人に執着する人
生き方に執着する人

人はどこかしらに偏りがあるものだねとつくづく思う。
それが人間だよねって思いながら、何かを頑なに掴みすぎるのが結局は息苦しくさせるよねって話した。



「昔の友達が愚痴ばっかりで、話合わなくなっちゃったんだよね。話すことなくって。」

仕事熱心に楽しくやっているらしい人から、耳にする話。
それをなんだかせいせいした顔で話す姿を見かけるのは、正直あんまり得意じゃない。
(私も断然、うだうだ言ってないで行動しよう派だけど)
  
大切にしてる友達の愚痴とか悩みを聞くことって全然嫌いじゃない。

私が家の事情で悩んでいた時期、みんな大学の進路や成績で悩んでた。働き始めた時は、友達は単位やサークルの悩みを話してた。
思い返せば、そもそも友達の口にする悩みや愚痴にはあんまり共感できなかったかもしれない。だから、わからなくても、わかろうとはしてきたつもり。

自分の悩みが友達に共感してもらえないことだともわかってて。悩みに大きい小さいなんてないよなぁ、なんて言い聞かせてた時も実際はあったかもしれないけど。

働く環境や仕事や人生へのモチベーションが全く違う友達と、懐かしい話をして、仕事の愚痴聞いて、パートナーの話を聞いたりして、なんでもない、たわいもない話しかない彼らとの時間は、頻繁でこそないけど私は好きだなぁ。
 

いやでも、私の友人たちがそもそも素敵だからそう言えるのかって思ったりもしながら。
私の友人枠は狭いから。大切にしてる人しか友達と思えていないところがある。その概念すら違うからだよね。私は出逢いには恵まれてた。

合わなくなったら離れる時ももちろんやってくる。そういう時期もある。
でももしも大切だったはずの、その時間を惜しいと感じてしまっているのなら、
それは人生の中でどこかの軸に偏りすぎていて、何か見えなくなってるんじゃないかしら。
もしくは、何か見えるようになっちゃったのかな。人間、頑張っていると実りのありそうなことばかりに目を向けてしまうもので。



なんてちょっと今日はまとまらないまま、うだうだ書いてみる。


余計なことはしすぎるほどいいよ。◎

んー。素敵な言葉🙏✨

余計なことって、自分の中の偏りを
整えてくれるのかもしれないね◎
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私の仲間たちは、どちらかというと社会不適合者的な人たちが多い。(多動症、ADHD、躁鬱、、よりどりみどりの愉快な仲間たち)

社会での生きづらさの中で生きていくために、自分の適応できる場所を自分でつくってきた人たち。そのために自分を知り、相手を知ろうとすることをたくさんしてきた人たち。
人間ってものと、たくさん向き合ってきた彼らの存在は私にとって本当に尊い。


誰かと一緒に歩むこと、信頼関係を築くこと。
自分を知ってもらう努力と、相手を知ろうとする努力をなしに、それはできないって思ってる。

本当の意味で信じて頼り頼られるような関係って、委ねあえるような関係って、そこからしか生まれない気がする。

人間関係がうまくいかない原因は、ほとんどコミュニケーション不足(あと相性とタイミング◎)。
大切に想いあってるはずでも、それで壊れていく人間関係をたくさん見てきた。人間みんな不器用。儚いよね。

なんだかいろいろ書いたけど、
最近、少なかった友人と過ごす時間を思いがけずつくれてて嬉しい😊
いろいろ悩むこともあるみたい。
大切な友人を、まっすぐ見つめられる自分でありたいわー。


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